第二章 その2

フォクシーはきつねの小さな白い手を指のように口の前に持っていき、シー、と言った。多分、お静かに、という意味だろう。そしてちらっと金木犀の方を見やった。まるで、金木犀に後ろめたいことがありつつも、それをひた隠しているような仕草だった。

そして。

「こっちに来て」

と囁くように言ってきた。


フォクシーは土間を抜け、外に出ていった。

土間を抜ける瞬間、敷居を跨ぐ一歩が出ない。ふと頭の骨に得体の知れない鈴の音の残響が響いた。

だが、大丈夫なはずだ。不気味な鈴の音は完全に止んでおり、フォクシーのとことこと土を踏む可愛い足音だけが鳴っていた。大丈夫、大丈夫だ。

土間を抜けて数歩、フォクシーが振り返った。

「あれ、じゃなくて。金木犀には聞かれたくないの」

フォクシーは真っすぐに僕を見つめながら言った。

なぜ?僕は頭の中で疑問を浮かべるが、それを言ったところでいい答えがもらえるとは思えない。しかし、訊かないわけにもいかないだろう。

「なんで金木犀をそんな目の敵にするの?」

フォクシーは僕の目を射抜き見ている。そして小さく呼吸をした。

「驚いた。あんなことがあった後の最初の質問がそれ?

ほんと…、金木犀のことを大事にしてるんだね…」

溜息交じりの「ほんと」はとても寂しそうだった。

「答えになってないんだけど」

僕がそう言うと、フォクシーはやれやれといった様子で首を横に振った。

「もぅ、せっかちは女の子に嫌われるよ」

フォクシーは口吻をあげてみせた。多分ニヤついてるいるのだろう。

「フォクシーに、嫌われるの間違いじゃない?」

低い場所で視線が交わる。

「そぅ?金木犀だって君を嫌うかもよ?」

「だとしたらそれは僕の罪だ。そして、僕はもう罪を重ねないって誓った」

「罪…、ね。記憶が無い君が罪って言葉を使うのは、なんていうか、間違ってるよ。その罪がどこから来て、どんな形の罪悪感なのか分からない限り、あんたの罪は独りよがりなんじゃない?

今のあんたは矛先を常に自分に向けて、自分で柄を持ってる状態だよ。金木犀も、そして、私も。誰も柄を持って刺そうとしてないのに。

そんなの傍から見てると滑稽で仕方ないよ」

…、その通りかもしれない。僕は、自分に何があったのか探す旅に出ている最中だ。そしてまだ何も見出してない。そんな状態で罪を重ねる云々というのは空々しいにもほどがあるのかもしれない。その罪の根源さえも思い出していないのに。

そこでふと思い出した。

「話を逸らすなよ。金木犀を目の敵にする理由を訊いてるんだろ」

すると、フォクシーは素っ頓狂な声を上げて笑い出した。

「あれ?伝わらなかった?

そっか、まぁちょっと伝わり辛かったかもね。要はさ、金木犀は罪のすり替えをしてる、ってこと。それが意図してなのかは分からないけどね。あんたの視野を狭めて罪を身近にさせてる。だから私は金木犀を敵視してるの」

「金木犀は、そんなこと考えてない。っていうかそんなこと考えられない」

「天然ちゃんだから?」

「金木犀のことはフォクシーよりも僕の方が良く知ってる」

「でしょうとも。でもね、金木犀がそこに居る理由も知らないくせに、あまりに自信満々なんだね」

フォクシーは得意げに前足で目を指した。そして、僕はそれに何も返すことができなかった。

夕闇に合うような静寂が流れる。そしてその静けさをゆっくりと割くようにしてフォクシーが口を開いた。

「大丈夫。私はあんたの味方だから。絶対に、それだけはほんと。もし全てを思い出したいのなら、気は進まないけど、最後まで付き合うつもり」

そして小さな足は踵を返し、小屋の方に向かいだした。

「そろそろ金木犀も気が付くかも」

そう言って歩き出した小さな足が、ふいと止まった。

「あとね、私があんたを嫌う、とかそういうことは絶対にないから。万に一つにもないから。私とあんたの間には、罪なんてないから。それだけは、忘れても、忘れないで」

そしてとことこと歩き出した。こちらを振り向かず、静々と歩いて行ってしまった。そして土間の影に隠れるかどうかというとき、僕はその背中に言った。

「僕の名前は幸太郎、だ。あんたじゃない」

その言葉にフォクシーは半身で振り返り、僕を流し見た。そして。

「知ってる。でも、呼びたくない」

小さな影は小屋の暗がりの中に消えていった。


金木犀はさっきとほとんど同じ姿勢でうずくまったままだった。

気を失っているから、寝ているとは言えないだろう。だがやはり、こうも静かに目を瞑っている金木犀を見るのは新鮮だ。しかし、この新鮮さは同時に不快感を伴っていた。

僕は金木犀の元に歩み寄り、声をかけた。

「なぁ、起きろって」

しかし、依然として起きる気配はない。

金木犀は誰かに触れたいと言っていた。僕はその意味を表面だけなぞっていたらしい。誰かに触れなくちゃ、何も出来ない。そんなむず痒さがちくちくと体を刺激していくようだった。

「もう安全だから。なぁって」

額に脂汗が覆う。ころころと表情の変わる金木犀が、いつもやかましい金木犀が、そして時折寂しげに心を漏らす金木犀が静かにうずくまっている姿は、生気のない虚像を彷彿とさせた。もうそこに僕の知る金木犀はおらず、元の虚ろな瞳の少女だけが残っているかのような、そんな感覚を覚えた。錯覚でないと信じたい。でも…。

「起きてくれよ、なぁ。

金木犀…!」

僕は右手で握りこぶしを作り、それを太腿に叩きつけた。揺さぶれない、掴めない、そのやり場のない手の感覚を相殺するように。目の前の現実から目をそむけたく、目を伏せながら。

「コータロー、呼んだ?」

間の抜けた、それでいてどこか心地よさを感じる声が聞こえてきた。そこに居ることがもう当然となってしまった少女の声が。

僕は顔を上げた。強く結んだ瞼のせいで焦点が合わない。それでも、朧げな世界の中で僕は黄色い光を見た。薄暗闇の中に揺れ動く微かな髪の動き。その奥に光る数輪の小さな光。そしてどこからか漂ってくる香り高い芳香。

「どうしたの?なんかあった?」

そしてこの素っ頓狂な声だ。

「お前…、起きてるなら返事しろよ!」

つい声を荒らげてしまうが、誰も止める人間などいない。僕も、フォクシーも、金木犀でさえも。

「お前、じゃないでしょ。金木犀でしょ?」

そして笑顔が咲いた。

「おはよ、コータロー」

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