第15話:死の恐怖

「やぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」



 まっすぐと肉薄して剣を一気に振り下ろす、アニエスが得意とする戦法はしかし――



「なっ……!」



 ひらり、とそれはアニエス自身が呆気に取られるほどあまりにもあっさりと。

 一颯イブキ表情かおを微塵にも変化することなく躱した。

 とは言えアニエス自身もなんの策もなく、ただ剣を振るったわけではない。

 彼女の戦法マニュアルにこのような事態に陥った場合の対策は既に記入済みだ。



「あぁぁぁぁぁぁぁああああっ!」



 虚しく空を斬った刃をそのまま上空へと振り上げる。

 これこそ両刃造りである剣の最大の強みだ。


 葦太刀あしだちのように片刃だと、どうしても斬る際には刀身を返す必要があるが、両刃にはそうする必要がない。


 どちらと共に敵を叩っ斬れるよう刃は入念に尖れていて鋭い。


 特にアニエスが所持するこのロングソード――名剣ティアマトは、刀身が鋭利すぎるために一度振るえば真空刃を生じて遠く離れた敵をも両断する、大変優れた大業物だ。


 もっともアニエスは未だ、真空刃を発生させるだけの斬撃を出せた試しがないが。


 それはさておき。



(ど、どうして私の攻撃が当たらないの……!)



 幾度と剣を振るったにも関わらず、彼女の太刀筋が敵手に全然届かない。

 一颯イブキは男だけども自分なんかよりもずっと強い。


 だからせめて掠り傷一つぐらいは、と意気込んだものの非情なる現実に、アニエスの胸中では焦りの感情いろが激しく渦巻いていた。



「――、とりあえず一旦中止だ」



 と、一颯イブキの一声にようやくアニエスは剣を下ろした。

 この頃には既に息は絶え絶えで全身からは滝のような汗がじんわりと滲んでは流れていく。

 思えばこんなにずっと激しく動いたのは、はじめてかも……。

 そんなことを、アニエスは呼吸を整える傍らでふと思った。


 同時に自分の体力が限界に達しようとしているのに、呼吸の乱れもないばかりか、汗一つさえもかいていない一颯イブキにいたく驚愕する。



「ど、どうして……」と、アニエス。



 やっとの思いで声を絞ったことに対し、返ってきたのは明らかに呆れを含んだ大きな溜息だった。

 その挙措はまるで、そんなこともわからないのか、と言いた気であった。



「――、今のやり取りでよくわかった。案の定お前は絶望的に実戦経験が乏しい、おまけに自分よりも強い相手と出会ったことがほとんどない。剣の腕前も熟練者には一切通用しない、喧嘩クラスときた……はっきり言って、よく今日まで生きることができたな」

「うっ……そ、それは……」



 反論しようとしたものの、説得力が壊滅的にないのでぐぅの音も出ない。

 ここまで力量の差を見せつけられては、反論する方が愚かしく恥ずべき行為だ。

 アニエスは一颯イブキからの指摘を素直に受け入れるしかなかった。



「さてと、それじゃあアニエスの実力もわかったことだし……そろそろ始めるぞ」

「……えぇ」



 ようやく本格的に修練が始まろうとしている。


 ここでついに腰の剣が抜かれるのか、と身構えたアニエスだったが、またしてもさっきと同じく無手で構える一颯イブキにアニエスはとうとう問い質した。



「どうして剣を……いえ、葦太刀あしだちを構えないの!? 確かに私はあなたよりもずっと弱いかもしれない。だけど――」

「――、おいアニエス」と、一颯イブキ



 次の瞬間、周囲の空気がぴんと凍り付いた。



「なっ……」



 驚愕からぎょっと目を丸くしたアニエスは、何が起きたのか皆目見当もつかない。

 今の時期はまだ春をほんの少しすぎたばかりで、まだまだすごしやすい。

 だから真冬のように、凍てつくような寒さを憶えるなどこれはありえないことである。



「あ……はっ……」



 呼吸が酷く苦しい。

 息を吸う、たったそれだけの動作で日頃から当たり前として認識している行為が今では満足にできない。

 全身もがたがたと、さっきから震える。

 寒いから身震いするのとでは訳が大きく違う。

 生まれてはじめて経験する感覚にアニエスは激しく困惑する中で、一颯イブキがついに動いた。

 開戦の合図もなく、突然飛翔するが如く間合いへと肉薄するや否や、アニエスの両腕を斬った・・・



「ああああぁぁぁぁぁっ!」



 断末魔にも似た苦痛の叫び声を上げるアニエス。

 いつの間にか一颯イブキの手には抜き身の太刀があった。

 もうこれは特訓、などというそんな甘い領域の話ではない。

 実戦……互いの命を賭した、本物の殺し合い。


 かつては確かにあったはずの両腕は、今や剣を握ったまま地に落ち、生命の源たる赤々とした汁が絶え間なく流れ落ちる。


 幼子でもこの傷を見れば重症だと察しよう。

 痛みは、不思議にもなく。

 しかし両腕を失ったと言う恐怖と絶望感が魂を容赦なく締め付ける。

 そんなアニエスに凶刃は無慈悲にも彼女の首をすとん、と落とした――



「――、いつまで呆けてるんだ?」



 一颯イブキにそう言われ、アニエスはハッとした顔をした。


 今、確かに斬られたはずなのに……! はたと見やる己の肉体は、傷一つついていない。

 両腕も首も、しっかりと胴体とくっついている。

 事態が飲み込めず呆然とするアニエスに、一颯イブキの冷たい声が静かに響く。



「今……お前は何を感じた?」

「え……?」と、アニエス。

「殺された……と、そう錯覚したんじゃないか? 命がすっと抜けていく感覚、眠りとどこか似たような感覚……それを今、お前は実感したはずだ」



 正眼中段の構えを維持したまま、じりじりと少しずつ。だが着実に間合いを詰めていく。

 ゆっくりと迫るそれにアニエスは「ひっ!」と、短い悲鳴と共に同じ分だけ後退る。

 今、迫っているのは一颯イブキではない。


 想像を絶する恐怖、言葉ではとてもじゃないが表現しようのない感覚――死であると、ようやくアニエスは身をもって理解した。



「これが実戦だ、これが本物の殺し合いだ。死にたくなかったら強くなれ。俺に一太刀を浴びせられない限り、この苦痛は永遠に続くぞ」



 一颯イブキが両手を振り上げる。

 やはり何もないはずの手には太刀があり、陽光を浴びて怪しく煌めく凶刃は再びアニエスへと牙を剥いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る