第19話:双子山の境にて

 逆に言い換えれば、己が敵を前にして失禁するようなものである。

 これでも侍だ、それが恐怖に負けてもらすなど恥と感じるように。

 アニエスの落ち込み具合は一颯でも十分すぎるぐらい共感できるものだった。

 だから一颯は決して、アニエスのことを笑ったりなどしない。


 強いて言うなれば、真剣に太刀合うなどとのたまっておきながら、ほんの少しだけ煩悩が芽生えた。


 若い年頃の、うら若き乙女のそのような失態を前にして反応しない方が異常なのである。


 その点では一颯はいわゆる、男色の気はない――ただ本人が意図したわけでなく、彼に惚れたと言う男性もそれなりいたりするのが、一颯のちょっとした悩みでもあった。



「――、まぁ確かに恥ずかしいかもしれないけど。俺はそんなに気にしてないから、もうあんまり気にするな。今度はその過去に足を掬われて殺される、なんてことにも繋がりかねないからな」

「……イブキは、その……どうなの?」

「どうなのって……何が?」

「だから、その……も、もらしちゃうような女性は頼りないっていうか、カッコ悪いっていうか……」



 後半は、口籠って正確に聞き取ることは不可能であった。


 アニエスは最後、なんて言ったんだ? 疑問ではあるが本人の口から語ることを再度促すような真似は野暮というもの。


 大方何を言わんとするかは一颯も察している。

 深くは追求せず、質疑応答のみを一颯は行った。



「別に、俺はカッコ悪いとかは思ってないぞ」

「……本当?」と、訝し気な視線を送るアニエス。



 仮にも師範代である言葉を、この門下生はどうも信じられないでいるらしい。


 入門してからまだ一日目と日は極めて浅く、そこに信頼関係など当然生まれるはずもないので、アニエスの言動には仕方ない部分も確かにあろう。


 今後アニエスには、大鳥 一颯は嘘を吐かない男と言うことを心身共に認知してもらう必要がある。一颯は小さく笑みを浮かべた。



「俺は基本、嘘は言わないよ。もしあの場で俺がカッコ悪いと思ったとしたら、戦わずに逃げた時だろうな」

「逃げた……時」

「いいかアニエス。俺達侍はな、基本よっぽどの理由がない限り抜くことはないんだよ」



 これはどの流派にでも通用することではあるが、名のある物から無名のものまで、ありとあらゆる流派が存在する中で唯一、共通として言えることは“不抜の剣”であれ、という在り方だった。


 葦太刀あしだちとはいわば、己の魂を示す器である。

 己が魂をそう簡単に穢してしまえるような輩はもはや、侍と呼ぶに値せず。

 単なる獣畜生と同じか、あるいはそれよりも劣る。

 “不抜の剣”――抜かずに済むのであればそれでよし。


 もしもどうしても抜かねばならない時が訪れたら、その時はどんな手を使ってでも敵を斬れ――と、このように教える流派は結構多い。



「剣を抜く必要がないのなら、それに越したことはない。葦太刀こいつは己の生き様を表す、もう一人の自分みたいなものだからな……」

「己の生き様を……表す……」

「時には逃げてもいい。だけどどうしても逃げちゃいけない状況っていうのはあるだろ? そこでもし、泣き喚いて我が身かわいさに逃げようとすれば、それこそ俺はカッコ悪いと思う」

「…………」

「アニエス、あの時のお前は確かに無様の一言に尽きた。だけどそれでも、お前は逃げずに俺に立ち向かってきた。だからお前はカッコ悪くなんかないぞ、アニエス」

「イブキ……」

「まぁ、あれもいい思い出だろ。お互いにとってな」

「お、お願いだからイブキは忘れて!」



 顔を真っ赤にして嘆願するアニエスに、一颯はからからと笑った。



「――、うっ……」



 不意に訪れた立ち眩みに、一颯は内心で焦りを憶える。

 いい加減にのぼせてきた……。彼是一時間、もっとか。

 ずっと湯船に浸かっていたので、肉体がそろそろ休息を取るように訴える。


 そうしたいのは一颯とて山々ではあるが、状況が状況だけにそうもできそうにない。



(多分アニエスも、俺が下も隠していないことは知らないはず。そんな状況で出ていったら――)



 今は機を窺っているだけの女性達も、たちまちその毒牙を剥くであろう。



「大丈夫? イブキ……もしかして、のぼせたの?」

「ちょっとだけな。まだ大丈夫……と言いたいところではあるけど、さすがに長くは持ちそうにないかも……」

「と、とにかくどうにかしないと……だけど……」

「クソ……楓の奴はまだなのか――」

「お兄ちゃん私のこと呼んだ?」と、聞き慣れた声は心なしか弾んでいる。



 ようやく待ち望んだ人物の登場に、一颯は安堵の溜息を盛大にもらした――のも、一糸まとわぬ妹の姿を前にすれば、それもすぐに驚愕の感情いろに染まった。



「か、楓!? お前何をやってるんだ……!?」

「べ、別に。ご、郷に入っては郷に従え、って言葉があるでしょ? だから私も、こっちにいる間はそうしよっかなって思っただけ……だもん」

「いやお前声震えてるじゃねぇか! 恥ずかしいなら最初からしなかったらいいだろう!」



 誰かの悪知恵に騙されたりでもしたのか? 顔を真っ赤にして、目にはうっすらと涙まで浮かべる楓に一颯は頭を抱えた。


 どうしてこうなったのだろう。

 皆目見当もつかない一颯だったが、さすがは兄妹と言うべきか。


 すっとおずおずと差し出された大きな手拭いを、一颯は早速自分の身体へと巻き付ける。


 胸部はともかくとして、これで秘部を晒す必要もなくなった。


 一颯は素早く手拭いを身体に巻き付けると、逃げるようにそそくさと浴場を後にする。



「うっ……」



 立ち眩みによって視界が微かに歪む。足元もたっぷりの湯に取られて覚束ない。


 ふらふらと今にも倒れそうだった一颯を、サッと素早く支えたのがアニエスだった。


 右腕が彼女の大きな二つの谷間へと挟まれるが、体調不良を訴える現状の一颯に反応を示せるだけの余裕など皆無である。



「アニエス……」

「言ったでしょ? 私が守るって。ほら、とりあえず脱衣所まで一緒に行くからしっかりして」

「うぅ……な、なんか悪いな」

「いいの、気にしないで。だって私はあなたの門下生なんだし、これぐらいはして当然じゃない――でしょ?」



 と、屈託のない笑みに一颯も力なく口元を緩めた。

 刹那、背後より吹きすさぶ突風に一颯は全身の肌がぞわりと粟立つのを感じた。

 これは、殺気である。付け加えるならば酷く禍々しくて、それでいて大変鋭い。



(おいおい楓の奴……こんな公共施設の場でなんて殺気を出すんだよ!)



 これではまるで怪異である、と誤解を生んだとしても無理もないだろう。


 それぐらい楓が放つ殺気は凄まじく、一瞬にして空気が凍てつくこの空間に耐性のない者から次々と湯船に沈んでいく。


 辛うじて意識を保っているのは、たったの数名。


 内一人がアニエスだが、その表情かおは見るからに苦し気で気力でなんとか持ちこたえていると言った様子だった。



「――、お兄ちゃん。調子が悪いの? それならどうして私を頼ってくれないの?」

「いや、頼るも何も……アニエスがたまたま駆け寄ってくれたからそのまま厚意に預かってるだけだぞ?」

「それじゃあ私でもいいよね! 厚意なんだから問題ないよね!?」



 ざばざばと乱暴に湯船の中を突き進むや否や、アニエスとは反対側に素早く陣取ると楓は思いっきり一颯の腕に抱き着いた。


 妹言えども一人の異性であることにはなんら変わりなく、まだその顔には幼さが残れど体つきはもう大人として成長している。


 胸は、アニエスと比較すると控えめこそあるがしかししっかりと主張するだけの大きさは確かにある。


 なんでこうなった? 過去最大の疑問なのは否めず、いずれにせよのぼせた一颯には振り払う気力さえもない。


 両腕共に柔らかな肉の感触に挟まれた一颯は、半ば引きずられる形でずるずると脱衣所まで連行された。



「――、というかお兄ちゃんお風呂好きなのはわかるけど、いつも長風呂しすぎよ」

「入浴はいいことだとは思うけれど、限度を守らないといけないわ」



 二人からのまともすぎる言い分に、一颯もぐぅの音もでなかった。

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