第18話:入浴はいい文明
このような問い掛けをする輩はまず、
何故なら彼らにとってはあまりにも愚問すぎるからに他ならないからだ。
わざわざ答える必要もまぁあるまい、があえて答えるとすれば、誰しもが口をこう揃えよう――入浴である、と。
中継砦スケグル――の、宿舎区画の入浴場は広々として、ざっと見ただけでも20人以上は優に収容できるだけのスペースはあろう。
ほかほかと夜空へと登る白い湯気に、程よい温度を保つお湯加減は正しく究極の癒しであると言っても、それは決して過言ではあるまい。
入浴は身体の汚れのみならず、心も自然と穏やかになる。
「やっぱり、風呂って言うのはどこで入ってもいいもんだなぁ」
別段、誰かに尋ねたものではない。
そもそも今入浴場にいるのは一颯ただ一人のみである。
つい数分前まではちらほらとあった人影も、今では誰もいない。
大衆浴場があまり好きでないのか、肌を大きな手拭いで隠してこそこそと入る仕草は正に女性そのもの。
そういう意味では一切隠さずに入浴した一颯は、さぞ非常識かつ大胆不敵な男として映ったに違いあるまい。
結局一颯は一人だけの空間を思う存分楽しむことにした。
そんな一人きりの時間も、とうとう終わりがきてしまった。
誰かが別の客が来たらしい。
別段談笑する気はないがこれも何かの縁ということで、ひとまず挨拶ぐらいは交わしておくべきと、ちらりと横目をやった一颯はぎょっと目を丸くした。
「イ、イブキ!? どどど、どうしてここにいるのよ!」
と、酷く驚くのも無理はあるまい。だがそ少なくとも彼女が吐くべき台詞ではない。
何よりも女性であるアニエスが何故男湯にいるのか、これももちろん早急に解決すべき事案であるが、それ以前の大問題が一颯の眼前で現在進行形で起きていた。
(こ、こいつ正気か!? なんで女なのに身体を隠してないんだよ!? ちゃんと隠せよ!)
幸い、と果たして述べてよいものかは、この際さておき。
上手い具合に湯けむりがアニエスの大事な部分を隠している。
ただし辛うじて、の状態でなんのいたずらか心地良い夜風がぴゅうっ、と吹き抜けると湯けむりも風と共に消失する。
時間にすれば、それはほんの一瞬の出来事。
一颯は一瞬の猶予でどうにかアニエスから視線を逸らすことに成功した。
危なかった、と一颯はホッと胸を撫で下ろす。
如何に女性の価値観が異なれど嫁入り前の生娘の裸体を見るなど、互いにとってよくない。
ほんの少しだけ、本音を暴露すると、少々惜しい気がしないでもない。
これは、胸の内にそっとしまっておくと固く誓って、それはさておき。
何故女性のアニエスが男湯にいるのか。
一颯はまず、この疑問を背を向けたままで彼女に問い質した。
「な、なんでアニエスがここにいるんだよ! ここは男湯だろ!?」
「えっ? あ、もしかして……イブキ、あなた看板を見てなかったの?」
「え? 看……板……? そんなの――」
さっき入った時にあったか? きょとんと小首をひねる一颯に、アニエスは言葉を続ける。
「男性が貸し切りで入れる時間が決まっているのよ。今は女性が入ってもいいことになってるのよ」
「げっ!? そ、それは本当か!?」
「そ、それよりもどうしてイブキはタオルで身体を隠してないのよ!」
「
アニエスが答えるよりも先に、回答の方がぞろぞろとここ大浴場に集まってくる。
男性の入浴時間が終わったのでくるのはもちろん女性ばかりだ。
皆若々しい生命力で満ち溢れていて、アニエス同様に全員なんの恥ずかしげもなく裸体を晒している。
ここでもよい仕事をした湯けむりに一颯は心底ホッと安堵して――まったくもって何も安心できない! 大浴場から出ようとしたが時既に遅し。
来場者も一颯の存在にはたと気付いて一瞬だけ目をぱちくりとするも、すぐに飢えた獣の如く怪しく眼光を輝かせる。
こちらでは男性は身体をタオルで隠すのが当たり前としている。
一颯はその当たり前を当然していない。
この状況で勘違いしない方が無理というもの。
彼女らの前には極上のご馳走があるのも同じ。
それを突然お預けをくらうことに素直に納得できようはずもなく。
じりじりと舌なめずりをして詰め寄る女性達だが、アニエスが毅然とした態度をもって彼女らの前に静かに出た。
「なんだお前は」と、見るからに厳つい顔をした女性。
「この人は……私の、大切な人なの。悪いけど邪魔をしないでもらえるかしら?」
と、アニエスの発言に一颯は思わず声をもらしそうになる。
もっとうまい言い訳があっただろうに! 明らかな誤解を招くアニエスの発言ではあるが、しかしこの窮地を乗り切るには下手に介入しない方がよかろう。
一颯は口を固く閉ざして、代わりに首を何度もぶんぶんと大きく上下した。
しばしの沈黙が流れ、睨み合っていた両者だったが、変化は不意に訪れた。
「……ちっ、せっかくいい男を見つけたから一緒に遊ぼうって思ったのによぉ」
厳つい女性が先に折れると、それに続くように他の女性もぞろぞろと離れていく。
「……たった一日なのに、本当に成長したなアニエス」
と、嘘偽りのない本心からの言葉を一颯は素直に送った。
去っていった女性達も、決して弱者の部類される側ではない。
かつてのアニエスであれば戦闘はもちろん、恐らくはさっきの睨み合いですらも勝てなかった。
それを見事追い払ったのだから、これはアニエスが成長した証と言えよう。
師範代として門下生の成長に一颯も自然と嬉しくなった。
それはさておき。
「――、とりあえずもうしばらくここにいるか」
「その方がいいわよきっと。今動いたら多分、あの人達襲ってくるだろうから」
アニエスがちらりと見やった方を、一颯も視線で追う。
はたと一人の女性と目が合った。
その瞳はぎらぎらと怪しく輝いていて、さながら餓狼の如き獰猛さを彷彿とさせる。
どうやら彼女らはまだ諦めていないらしい。
獲物が晒す一瞬の隙を今か、今かと狙って離さない視線は、心安らぐここ入浴場ではあまりに不相応極まりない。
「――、楓やリフィルさんは?」と、一颯。
今この場にいない二人の存在こそ、この窮地から脱するための重要な存在だ。
あの二人……特に楓さえいてくれれば、まだどうにかなる。
伊達に長年共に暮らしていないし、兄妹だからこそ言葉を交えずとも大方の意志はくみ取れる。
きっとこの状況を察して手拭いを持ってきてくれるだろう。
そう信じて疑わない妹が何故一向になっても現れないのか。
不思議に思った一颯は祈るように脱衣所のある方をさっきからジッと見つめるが、やはり一向に現れる気配がない。
「――、カエデならまだしばらくはこないかも」
「え!? ど、どうして……!」
「詳しいことは私もよくわからないけど。でもリフィルが言うには、誰かを斬りそうなぐらい凄い顔をして修練してるって言ってたわ。そのリフィルもそれっきり見てないわね」
よりにもよってこんな時に……、アニエスとの修練に当てられたか。
精進を怠らないその姿勢については一颯も素直に感心するところだが、如何せん今日ばかりは都合が実に悪い。
いつぐらいになれば楓はやってきてくれるだろうか、とそわそわと内心落ち着かない心境の一颯に、アニエスが小さな咳払いを一つする。
「安心してイブキ。何かあったらこの私があなたを守るから」
「……え?」と、一颯。
予想外と言えば、確かに予想外ではあった。
先刻まで一方的に打ちのめされたとは思えないほど、揺るぎない自信に満ち満ち溢れたアニエスの言葉には、さしもの一颯も耐えられず噴出してしまう。
「ちょ、ちょっと! どうして笑うのよ!」
「いや、だってお前……さっきまで俺にあれだけ斬られたんだぞ? おまけにアニエス、さっき小す――」
「ストップストップ! それは言わないでってば! というか、み、見てたの!?」
「そりゃあなぁ。あれだけがっつりとされれば、俺じゃなくても嫌でも見るぞ?」
一颯に悪気はなく、ふと拍子にうっかり口走ってしまったと察した時にはもう後の祭り。
ならばもう下手に嘘を吐いて彼女の尊厳を貶すよりかは、素直に真実を告げた方がまだ笑い話にもなろう。
事実あの太刀合いにて、いきなり小水をもらされた時の一颯は内心では激しく狼狽していたことを、アニエスはむろん知る由もない。
(恐怖で失禁するっていうのは聞いた頃はあるけど……あれ、本当にあるんだなぁ)
別段、小水をもらしたアニエスを貶すつもりは一颯には微塵もない。
恐怖によって過敏に反応した生存本能からくる生理現象で誰しもに備わっている。
アニエスは、きっと何よりも恥ずべき行為だったと悔いるだろう。
ヴァルハラ大陸の女性の倫理観は強く、美しく、それでいて堂々として雄々しあれ……誰かがきっぱりと明言した訳でないが、今日に至るまでに目にした一颯は、そのように受け取れた。
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