第5話:人生初の船旅楽しー!は最初だけ

 朝早くから一颯と楓、二人そろって驚愕から目を丸くしたのは他でもない。

 広大な母なる海の上で、ぷかぷかと浮かぶ船に食い入るように見つめていた。


 貧乏生活なのは否めず乗船する機会などなかった一颯達でこそあるが、船そのものを見たことぐらいはさすがにある。


 ただし目にした船と言うのはすべて漁船で、その規模も差ほど大きくない。


 軍船ハルバード号――リフィルがここ、葦原國あしはらのくにへ来航する足掛かりとした船の名前である。


 規模について一颯は、まるで巨大な城のようだとすこぶる本気で思った。

 周囲にある漁船が蟻であれば、軍船ハルバード号はさながら山の如し。


 もはや比較対象にすらならない軍船の甲板へと出た一颯は、年甲斐もないのは重々承知の上で嬉々とした顔で周囲を物色した。



「はぁ~……すっごい船持ってるんだなぁ」

「わ、私なんだか今更だけどすっごく緊張してきちゃったよ……」

「あ~。それは俺もわかる。人生の中でこんな馬鹿でかい船に乗るなんて夢にも思ってなかったからな」

「そうだね――またこうして、お兄ちゃんと二人っきりでお船に乗ったりすることができるかな?」

「そりゃあ、できるんじゃないか? いつになるのかは、さすがに俺でもわからないけど」

「……お兄ちゃん。また私と一緒にこうしてくれる?」



 と、不安そうな表情かおで見上げる楓。



「その機会が訪れたならな」



 と、一颯はふっと笑みを浮かべて頭を優しく撫でた。



「お二人とも、あまりはしゃがれますと海に真っ逆さまに落ちてしまわれますよ?」

「リフィルさん」

「まぁ、貧乏生活ばっかりで船なんて一生乗る機会があるかどうかもわからないですから、はしゃがれるのも無理はありませんけど」

「お兄ちゃん私この人大っ嫌い」

「いうな楓……例え思っていたとしてもな」

「――、それではそろそろ行きましょうか。出航してください」



 相変わらず毒舌が今日も映えるリフィルの号令の下、船はゆっくりと葦原國あしはらのくにから離れていく。



「いよいよ旅立ち、か……」



 不安がない、わけではなかった。

 一颯も楓も、生まれてはじめて故郷から離れるわけである。

 むろん、今後の人生を顧みればこれはとても貴重な経験だ。

 見聞を広げることは己の成長にも繋がるし、また新たな強さにもなる。


 不安と緊張がそれぞれ半々、心中に渦巻いて落ち着かない心を一颯は海を眺めることで紛らわした。


 青々とした海と潮風は自然と心に癒しをもたらし、高揚する心に平穏を徐々に取り戻させる。


 一颯がそうして精神を安定するように、楓の場合は、どうやら兄にべったりとくっつくことが手段であるらしい。


 人目を一切気にすることなく、これでもかと身体を密着させる。



「……なぁ、楓?」

「どうかしたのお兄ちゃん」

「……ちょっとくっつきすぎじゃないか?」

「だって、こうする方が落ち着くんだもん」

「そうは言ってもだな……」



 一颯は居心地が悪そうな表情かおでちらり、と周囲を一瞥いちべつする。


 ヘルムヴィーケが女性社会であるから、乗組員も等しく女性ばかりで構成されている。


 即ち現在この船に男は一颯のみということで、その珍しさから周囲からは関心の眼差しが自然と集中する。


 楓がべったりと身体を密着させている現在いま、乗組員たちからの視線が凄まじく痛い。


 それが好意的なものであれば気恥ずかしさだけで一颯も済んだだろうが、羨望や嫉みと言う感情であれば話は別。



「羨ましい」「後で声を掛けてみよう」と、などなど。



 耳を澄まさずともはっきりと聞こえる声で口々に己が欲求をもらす乗組員を前に、一颯は身震いするのを止めることができなかった。


 なんだか、猛烈に嫌な予感がして仕方がない。



「そういえば……」と、リフィル。

「どうかしましたか?」

「いえ、お二人とお父様……虎丸様は一緒ではないのですか?」

「あぁ、あの親父なら留守番してもらってます」

「そうなのですか? てっきり虎丸様も一緒に来られると思っていましたが……」

「一応、あれでも現師範代にして大鳥おおとり家の当主ですからね。さすがに主が道場をほったらかしにするというのもあれですから」



 真実を暴露するならば、最初こそ虎丸もこの旅に同行する算段だった。

 貧乏人が無料で旅行できると考えれば、断る道理はそもそもない。

 一颯自身も父の同行については差して興味がなかった。


 大会に出場できるのはあくまで楓のみで、ならば親子そろって妹の雄姿を応援するのもよかろう。


 しかし、これに猛反発したのが楓本人だった。



「わ、私はお兄ちゃんと二人っきりがいいの! だからお父さんは留守番してて!」



 あまりにもそうはっきりと楓が拒絶したものだから、虎丸は相当ショックだったのだろう。


 打ちひしがれて滝のように涙をボロボロと流す姿は、さしもの一颯もその痛々しさに心痛まずにはいられなかった。


 もし父の立場であったら今頃は、多分立ち直れてなかったのかもしれない。


 ともあれ出場者である楓の権限があるという形で、結果虎丸は一人寂しく故郷に残ることになった。


 せめて何かいい土産ぐらいは買ってきてやろう。一颯は一人静かに心に誓った。



「そうなんですね――あ、後先程からずっと気にはなっていたのですが、お二人のそのお召し物は? 以前は着ていられませんでしたし、もしかしてこの日のためにどこからか盗んでこられたのですか? 別段わたくし達はお二人が貧乏人だったとしても気にならなかったのですが……」

「マジで失礼ですねあなたって人は。これは盗品なんかじゃありませんよ!」



 もはやわざととしか思えないぐらいの毒舌に、楓に至っては野犬のようにうぅぅ、と唸って殺意をまったく隠そうとする気さえもない。


 もっとも、唸られている方は全然気にする素振りを見せることなく。

 一瞬だけちらりと横目にやれば、ふっと鼻で一笑に伏した。



「そのお召し物は盗品ではないのですか?」

「違います。いくら俺達が貧乏だからってそこまで落ちぶれるような真似はしませんよ」

「そうよ! これはちゃんとお金で買ったものなんだからねっ!」



 一時だけ一颯達が貧乏暮らしから脱却した日のこと。

 着物もそろそろボロボロだからと新しく購入した際、ほんの少しだけ贅沢をした。

 いつか有事の際に着るために購入したそれは、いわば勝負服である。

 楓のソレは、とにもかくにもかわいさを主に置いた着物である。


 ただし一颯に言わせれば裾が従来のそれよりもずっと短く、さながらくノ一のように思えてならない。


 一颯が纏うのは、赤を主とした生地に白のだんだら模様の入った皮製の羽織コート


 オオトリ家に代々伝わる当主の証である羽織は、もうボロボロで何年も使い回された中古品だ。


 どうせ遅かれ早かれ当主の座を継ぐのであるし、何だったらこれを機に新調しても罰は当たるまい。


 一足早い当主の座に就いた一颯は、リフィルの「へぇ」と差して興味なさげな態度を前に拳をぷるぷると小刻みに震わせた。


 自分から尋ねておいて、この有様だ。一颯がわざとらしく盛大に溜息を吐いた。



「――、イブキ様。イブキ様は先に船内の方へお戻りください」



 葦原國あしはらのくにを発ってから今日で三日目を迎えた頃。


 最初こそ興奮していた一颯と楓も二日も同じ景色ばかりを目にすればやはり、必ず飽きが着てしまうもので。


 今となってはぼんやりと暇を持て余すだけの時間をすごしていた。

 何かしらの刺激がほしい、とちょうど思っていたところだった。


 甲板で海をぼんやりと眺めていたところに突然の船内待機命令に、一颯は訝し気にリフィルを見やる。



「……この船で一番偉いのはリフィルさんです。だから命令とあれば従いますけど……どうして“俺だけ”なんですか?」

「理由は至って単純明快です。一つはイブキ様、あなたが男性だからです。そしてもう一つは……楓さん。大好きだけど絶対に物にならないのは確定しているお兄様を守りたいのでしたら、構えておいてくださいね」

「ちち、違うもん! お、お兄ちゃんとは別にその、ま、まだそんな関係じゃないもん!」

「楓?」と、一颯。



 林檎よりも頬を赤くしてわーわーと喚く姿に一颯が疑問を抱いたのも、ほんの束の間のこと。


 なんだか空模様が怪しい。嵐でもくるのだろうか……? ついさっきまで快晴だったはずの空に、いつしかどんよりとした鉛色の雲がどんどん覆っていく。


 やがてぽつり、ぽつりと雨が降り始めたかと思えばたちまち雷鳴を伴う豪雨へと早変わりした。


 穏やかった海は大きく荒れて、ぐわんぐわんと船体は激しく上下する。



(まだ三日目なのに嵐に見舞われるなんて、ついてないな……!)



 無事にヘルムヴィーケまでこの船は持つだろうか。

 そんな不安を抱いた矢先である。

 雨の勢いは激しくて、肌を打つ感触は痛みに近しい。

 視界は悪く遠くを見るのもやっとの状態だ。

 その不良な視界に映ったそれに、一颯は眉間にくっとシワを寄せる。



(あれは……なんだ? 船か?)



 うっすらとではあるが、それは確かに船の形をしていた。

 かの船も航海中にこの突然の嵐に見舞われてしまったのだろうか。

 どんどんと距離が縮まるにつれて、一颯はすぐに違和感に気付く。


 吹き付ける風は強く、気を抜けばすぐにでも転んでしまいそうになる中でその船だけが穏やかに順調な航海を続けている。


 更には船は規模は軍船ハルバード号より劣り外見は、どうして航海できているのかさえも不思議でならない。


 もはや海に浮かぶことが奇跡に近しいほど、酷くボロボロに損傷していた。


 一颯の脳裏にふと、ある言葉が浮かぶ。



「ゆ、幽霊船……」と、もそりと口にする一颯。



 それは古くから葦原國あしはらのくににも伝わる怪異の一つ。


 一説によると海で死して成仏できない魂が集合した結果、幽霊船として化けている。


 漁師たちの間でも、もしも遭遇したら魚を捨てでも逃げろ、と強く注意喚起されているぐらいの怪異との遭遇に、一颯がごくりと生唾を飲んだ。



「…………ははっ」



 恐怖は、まったくと言っていいほどなかった。


 雨でぐっしょりと濡れた一颯の表情かおに浮かぶは、嬉々とした色そのもの。


 長い間強いられた退屈からやっと脱せれるという喜びが胸の内から湧いてくる。



(あぁ、俺って言う人間ヤツは――)



 戦うのが好きらしい。そう自嘲気味に小さく笑う一颯の鼓膜に、突然としてガンガンとやかましくこだまするそれは、甲高い女性の笑い声だった。

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