3.猫、幻獣域に降り立つ
ぼくは夢を視ていた。
長い長い夢だった。夢の中で、ぼくは昏々と、すやすやと眠っていた。
夢の中で眠っていて、さらに自分が眠っていること、これが夢であることを自覚しているだなんて、へんてこなこともあるものだ。
けど悪い気分ではなかった。退屈でもない。
寧ろとても心地よい。
自分の体が、とろとろと溶けていくのを感じた。水になったような感覚。
お母さんのお腹の中にいる赤ちゃんは、こんなかんじなのかな。
或いは、サナギとか。
サナギになった芋虫は、一回自分の体をとろとろに溶かして、再構築するんだってね。そうやって美しい蝶になって、もう一度この世界に生まれ直すんだって。
もしかしたらぼくも――――――そんな取り留めのないことをぽやぽや考えている内に時は過ぎ、やがてぼくは、もう一度この世界に降り立った。
眼を覚ましたぼくが最初に見たのは、ごつごつとした木の皮だった。薄暗いけど、でも一筋、光も差している。
何となく寝返りを打つと、体がみしみしと軋む感覚。うんと伸びをして、新鮮な空気をお腹いっぱいに吸い込む。
とても長い間眠っていたようで動きだすのが億劫ではあったけど、体調はすこぶるよさそうだ。視界も頭脳も、すっきりと澄んでいる。
ぼくはほあほあの綿花を集めたベッドに寝かされているようだった。
寝心地はとてもよい。このまま二度寝してしまいたいくらい。
けど、もう一度寝返りを打ってうつ伏せになると、ほあほあの細かい綿毛がぼくの鼻の穴をくすぐった。ぼくはくしゃみをして、そこで覚醒した。
起き上がって、背中を念入りに伸ばす。
そこは樹の洞の中だった。ぼくが楽々入れて、しかも歩き回れるくらいに広いのだから、随分大きな洞穴だ。ぽっかり空いた出口の向こうには、枝葉と白い空が見えた。
――――――夢じゃない。
ぼくにはそれが分かった。
ぼくは昼夜構わずいつでも好きなときに好きなだけすやすやと眠ることのできる、快眠マスターである。
舐めてもらっては困る。夢の世界と現実の世界を見分けることなど、ぼくにとってはお手の物なのだ。
もっともこの能力を持っているのは現実のぼくである。したがって夢の世界にいるぼくは、たびたび夢と
もしこれが夢の世界のぼくだとしたら、ささやかなミスは見逃してほしい。
そんなことをぼーっと考えていると、突然影が差した。
「起きたか」
さわさわと梢を揺らすそよ風のような、静かな男声。
そのしゅっとしたフォルムや背筋の伸びた立ち姿から、一瞬人間かと思った。けど、人間ではなかった。
彼の足は鳥のような形をしいていて、鋭い鉤爪が付いている。マントのように思えた体を包む
そして頭は――――――似ているものを挙げるとしたら、ミミズクだろうか。のっぺりと平らで、黒い羽毛に覆われていて、ちょこんと
けど、クチバシはない。目も、やたら大きくて金色に輝いている割に無機質で、何だか車のヘッドライトみたいだと思った。
どこか昆虫を思わせる顔でもある。
とにかく、彼が幻獣であることは明らかだった。幻獣……そういえば、マシュマロはあの後どうなったのかな。
「
「あるじって?」
「貴様の主、そして私の主である」
お爺さんのことかな? こんな胡散臭そうなミミズクもどきを飼っていたはずはないけれど、ぼくの『主』といったらお爺さんのことだろう。
あれ、そうすると、ここは夢の世界なのかもしれない。ぼくは俄かに不安になった。
しかしやがて不安になる必要など何もないことに気付いて、全部どうでもよくなった。
ぼくはとことことミミズクもどきに近付いて行った。そして
外は霧深い森が広がっているようで、とても静かだった。鳥の羽音も虫の声もしないなんて、奇妙だ。
「外に出てみてもいい?」
「構わぬ」
「どうやって降りるの?」
「………………」
するとミミズクはおもむろに、ぼくのお尻を蹴り飛ばした。うわあーーーーっ、とぼくは落ち葉の敷かれた地面に叩き落とされ、ころころと転がる。
痛くはなかったけれどなんだかクツジョクだ。ぼくは樹上で目を光らせるミミズクを睨み上げた。
「おまえには主の息が宿っているため、滅多なことでは傷は付かぬ」
「お爺さんの息? なんだかいい気持ちはしないよ。好ましい匂いとは言えないもの」
「主を爺呼ばわりとは礼儀知らずな。せめてお年を召した方と言え。それに主の毛皮は石鹸の香りであるぞ。吐息ともあればファボリーズロイヤルローズアロマにも匹敵するスメルと心得よ」
「ちょっと何言ってるか分かんないです」
ミミズクと軽口を交わしながら、ぼくは森を散策する。
ミミズクはぼくのことが大して好きではないようだけど、ぼくのそばを離れる気はないみたい。音もなく木から木へと飛び移り、どこまでも付いて来た。
「ねえミミズク」
「ミミズクではない。我はシジマフクロウである」
「じゃあシジマ。ここはどこ?」
「………………」
お爺さんと住んでいたとき、ぼくは純潔の家猫であったから、外に出たことはほとんどなかった。お爺さんが亡くなってからも、あの冷たい街――――トーキョーしか知らない。
だからこんな森に見覚えは全くなかったし、あの街から近いのか遠いのかも分からなかった。
「……ここは幻獣域、“静寂の森”である」
「げんじゅういきって?」
「人間域とは一線を画す幻獣の棲み処である。幻獣巣の奥深く、時空の歪みを越えたその先に、我々の世界が広がる」
「じゃあトーキョーは遠い?」
「我はトーキョーを知らぬ」
「人がいっぱい住んでるとこ。冷たい雨が降る街」
「人間域? であれば、『遠い』などという言葉では表現しきれぬくらい、
そうなんだ。ふん、とぼくが頷くと、シジマはぼんやりと光る瞳をこちらに向けながら、首を1センチ傾けた。
「不都合か」
「うん? 別に、そんなことはないよ。ぼくあの街にいい思い出ないし」
「うむ」
シジマは特段優しい奴ではなさそうだけれど、特段悪い奴でもなさそうだった。
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