15. 黒狐は気まぐれだ。
お福の家である“水証会”の
支えていた膝の裏を優しくとんとんと叩き、柔らかい声色で声を掛けた。
「お福ちゃん。お家に着いたよ」
「ん……わ、すごく寝ちゃってた。あ! こんな社の近くに立ち入っちゃだめ! “おかあさま”に見つかったらもう逃げられないよ。早く逃げて」
「福? そこでなにをしているの。……あら? あんたは」
背後から聞こえた鋭い声に、二人とも怯えながら振り返る。
上品な紫色の着物を着た四十代くらいの女性が、わたしを怯えたような目で見ていた。きっちりとお団子に纏めた髪は、彼女の吊り上がった目をさらに厳しい印象にする。
互いに怯えた視線を交わしてから、わたしは「走って!」というお福の声に従って駆け出し、女性は大きな声で「皆! あいつを捕らえなさい!」と叫ぶ。
社のほうから大勢が動く気配がする。この全員がわたしを目がけて追ってくるのかと思うと、逃げられる気がしない。
大通りをまっすぐ走りながら後ろをちらと振り向くが、まだ追っ手は迫っていない。ふうと息をついて、それでもなお足は緩めずにいると、道端から唐突に声を掛けられた。
「爆走中のオネエサン、ちょっと聞きたいことあるんだけどよ」
「わたし⁉︎ ごめんなさい、急いでいるので」
声のほうをろくに見ず走り抜けようとするわたしの手首に、ふさふさとした何かが巻き付いた。それは案外力が強く、振り解けない。走る勢いのまま突然止められたため、腰がずれて変な音を立てたのが気掛かりだ。
手首には、黒と灰色がまだらに混じり合った色をした尻尾が巻き付いている。声の主の男性には同じ色合いの狐耳が生えていて、一目で狐族だとわかる。
色黒の肌、くぼんだ目元、切れ長の目、尖ったように高い鼻。漆黒の長髪を後ろで一本の三つ編みにしている。
日本ではあまり見ない、彫りの深い顔立ちをした男性は道端であぐらをかいている。彼はあくびをしながら、
「『銘杏』っつーラーメン屋どこか知らねえ?」
と尋ねた。
銘杏。それは紫水が営むラーメン屋、つまりわたしがこれから帰ろうとしている場所そのものだ。
客だろうか。銘杏は大通りに面したところにあるから、少し探せば見つかるはずなのだけれど。気怠げに座り込む彼の様子を見るに、ほとんど自分では探していないらしい。
「知ってます。っていうか、わたしの家です」
「わお、奇遇だな。案内しろ」
「そうしたいのは山々ですが、わたし、今、追われていて。あまりゆっくり歩いているわけにはいかないんです!」
後ろを見ると追っ手がもうすぐそこまで来ていた。
「離してください! 捕まるわけにはいかないんです!」
「あ? なんだ、“水証会”のやつらじゃねぇか」
わたしを解放しないまま、彼はゆっくりと立ち上がる。
彼のあまりの背の高さに驚いた。体格が良いとは思っていたが、予想外だ。紫水よりも大きく、ニメートル近くあるかもしれない。
彼が追っ手のほうに身体を向けると、追っ手たちも警戒したようにその足を止めた。手に持っている槍や
追っ手のひとりがすっとんきょうな声を上げる。
「こいつ、
途端に他大勢もざわつき始めた。俺も見たことがあるという声が湧き上がる。
一定の距離を保って
「ああ、そうさ。あんたらが崇拝する“おばあさま”を、呪い殺してやってもいいんだぞ? 今、すぐにな」
「お、“おばあさま”には手を出すな! そしてその人間をこちらに引き渡せ!」
「幸い、俺は機嫌が良い。だからあんたらのつまんねえ話に大人しく付き合ってやってんだ。だが、俺は気分屋さんでなぁ。機嫌がいつころりと変わるかわかんねぇぞ、つまりいつ気分で“おばあさま”を殺すかわかんねぇってことだ。早く決断するのを勧めるぜ」
前髪を掻き上げ、涼やかな表情をする彼を、追っ手たちは恐れ慄いた目で見ていた。
どうするか、と先頭にいる追っ手のリーダーらしき人物に相談する様子を見ながら、彼の機嫌が次第に悪くなるのが隣にいるだけでわかる。
「あー」
低く響く声で声を出すと同時に、追っ手たちはびくりと肩を震わせる。
「ねみぃから“おばあさま”を殺したくなってきた。なにも言わねえってことはいいってことだよな?」
右の手のひらを肩の高さで上に向け、腕の筋がはっきり見えるほど力を込めると、手首から先だけが毛むくじゃらの獣の手に変化した。黒い毛に覆われた手のひらには、控えめな肉球が埋まっている。
力を込め続ける彼の手の上に、黒と紫が混じり合った色の、
追っ手は後ずさり、意を決したように叫んだ。
「今日のところはこれ以上追わない、だから“おばあさま”には手を出すな! おまえの謎を解き明かした日には、許しを乞うて土下座するほどの屈辱を与えてやるからな!」
男は一斉に退散する彼らの後ろ姿を見送りもせず、
「これで良いだろう? 早く『銘杏』へ案内しろ」
と踵を返した。
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