12. 救いの言葉だと知って。

「味噌ラーメンも作ってみたらどうだろう?」


 ある日の昼過ぎ、客のいない時間にそう提案してみた。


 紫水は夕方のために麺やスープを仕込み、わたしはカウンターを拭いている。

 実を言うと毎日昼晩に醤油ラーメンを食べていて、少々飽きてきていたのだ。彼は目を丸くする。


「味噌汁にラーメンを入れるのかい?」

「違うよ。味噌ベースのスープだけど、もっとしょっぱくて油っぽくて、にんにくが効いてるの。っていうか知らないの? こっちには醤油ラーメンしかないのかな」

「ないというか、僕が“陽の側”から来た人に醤油ラーメンを教えてもらっただけで、元々はこちらにラーメンっていう食べ物はなかったよ」

「ええ⁉︎ 味噌ラーメン、すごく美味しいからきっと売れると思う」


 味噌ラーメンの美味しさを語るのを聞いて、紫水のラーメン魂に火がついたらしい。

 それから彼は時間さえあればラーメンスープの試作に取り掛かった。味はわたしのぼんやりとした記憶だけが頼りだ。こんなことなら屋台のおっちゃんに材料を聞いておくんだった。


「こんにちはー! 紫水くん、まかないひとつ!」

「お福、まかないの意味わかってる?」

「あはは。お福ちゃん、こんにちは。今日は紫陽花柄の浴衣なんだ、可愛いね」

「お姉ちゃんは喋ってないで紫水くんのためにちゃんと働いて!」


 あれから、昼時の客がいない時間を見計らってお福が店を訪ねるようになった。

 未だに彼女からの当たりは強いが、紫水との笑顔の会話に混ぜてもらえるようにはなってきた。少しずつ心を開いてくれていると思う。


 後片付けや掃除を終えると、例の本棚から『穂狐教の教え』という本を取る。

 まかないと称したチャーシュー丼を食べ終えたお福の隣に腰を下ろし、あるページを指差す。


「穂狐さまっていうのは、実際に生きていたの? 抽象的な記述と具体的な記述が混在しててよくわからない」

「それは福たちの中でも決まってない、信じたいほうを信じればいい」

「今もご存命だと信じる人もいるくらい、穂狐さまの存在についてはいろんな意見がある」


 コショウの補充をしていた紫水も、わたしたちのほうへやってきた。わたしの横を通るとき、肩をするりと撫でていく。

 最近こういうボディタッチが増えた。本人は無意識のようだし、わざわざ言うのも意識しすぎな気がするからなにも言えない。なによりフラットな手つきだからか、わたし自身もそんなに嫌ではないのだ。

 紫水は髪紐を解くと、真っ白な長髪に丁寧に櫛を通す。お団子を結い直すその仕草にはどこか色気がある。


「思想が明記された教典みたいなのはないの?」

「ほぼないね。穂狐さまが絶対の神であり、狐族は皆穂狐さまの血を引いていること。穂狐さまに祈りを捧げるか、浄化力を持つ人間と婚姻関係を結ぶことで“濁り”はそそがれること。それくらいかな」

「え? 祈りでもいいのにどうしてわたしが結婚しなきゃいけないの」

「それは僕のせいなんだ。本当にごめんね」

「もー! 紫水くんが謝ることないよ! そんなことより、紫水くんが昔、カジノのオーナー兼ディーラーやってたのは知ってる?」

「お福、そのことはあまり広めないでとあれほど……」


 ちょっと待ってね、と巾着を漁るお福を見て、紫水は自分の額に手を当てる。慌てた様子でわざとらしく、


「そうだ。きよのちゃんに、新商品の立て看板を描いてもらいたかったんだ。今度新しく塩豚丼を売り出すんだけど、僕、絵がてんでだめで」


 と言った。不満げなお福を残して、厨房の奥へと入る。

 彼に絵心がないのは事実だ。彼の描く人は首から腕が生えたり、目が三つあったりする。だからよくヘアアレンジのイメージ図を描いていたわたしが代わりに絵を描いている。


 塩豚丼の絵を描き始めたはいいが、彼はどんな雰囲気の看板を想像しているのだろう。

 尋ねようとカウンターに戻ると、二人はまだなにか話していた。ふとわたしの名前が聞こえて立ち止まる。


「勝手に結婚相手として連れて来られたわりには、紫水くん、お姉ちゃんのことずいぶん気に入ってない?」


 少々棘のある物言いだ。紫水は「いや、まあ……」と口ごもる。


「なんだかよく触るし、なによりお姉ちゃんを見る瞳がすっごく優しい。自覚ないかもだけど、福にはお見通しだからね!」

「……きよのちゃん、僕の変化しかけた半獣の姿を『美しい』って言ってくれたんだ。こちらの人はあの姿をひどく恐れるから、そんなことを言った人は彼女が初めてだった」


 そう言って嬉しそうに笑う。

 お福に導かれて薬品を打たれ、彼が助けてくれたあの日を思い出す。わたしが何気なく放った一言に救いを感じていたのだろうか。


 紫水はたがが外れたように言葉を続ける。


「それに突然わけのわからない世界に召喚されて、知らない宗教の約束事に巻き込まれてるのに、彼女は自力で元の世界に帰ろうとしている。僕は周りの意見に流されやすいから、彼女の芯が通った部分に心惹かれているんだ。初めは、穂狐さまの思し召し通り婚姻関係を結ばなければ、っていう義務感で接していたけれど、今は僕自身の意志で行動しているよ」

「ばっちり好意持ってるじゃん?」

「そんなはっきり言われると照れるよ……まあ、きよのちゃんは僕のことをうさんくさい狐男としか思っていなさそうだけどね」

「そうだね。だから、大人しく福にしておきなよ」


 積極的なお福にたじろぐ紫水から目を逸らす。尋ねようとしていたことも忘れて踵を返した。


 なんだか顔が熱い。きっと真っ赤になっているだろう。


 単純に嬉しかった。

 これまでも学校でこそこそと陰口でも言うように「松ヶ谷、可愛いよな」と男子たちが話すのを聞いてしまったことはある。

 けれども紫水が言ったのはわたしの容姿のことではない。生きてきてわたし自身で獲得したものを褒めてくれた。それはこれまでの二十年の生き方を肯定されているようで、ひどく安心したのだ。


 もう『うさんくさい狐男』だなんて思っていない。まあ、『謎が多すぎる狐男』くらいには思っているけれど。

 彼のことを疎んでいると誤解されたままなのはこちらとしても気分が悪いから、これからは素直に接しようと思った。

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