16. ふたりは旧友?

 あんなにぞくりとする表情を浮かべていたというのに、『銘杏』まで歩く間、彼はおとなしかった。問い掛けてみても雑な返事しかなく、先ほど見た黒紫色の煙について尋ねてみても、


「なんの意味もねえ、ただの煙だ」


 としか答えない。


 ただひとつ、店が見えてきた頃に、


「あんたは紫水の店に、紫水と一緒に住んでいるのか?」


 と聞かれ、


「はい。部屋を貸してもらっています」


 と答えたら、彼は意味ありげな笑みを浮かべた。浅黒い肌から真っ白な牙が覗いている。


 夜の営業が始まりにぎわっている店に、彼はなんの躊躇もなく入る。わたしも後からついていくと、カウンターの紫水が彼を見て固まっていた。


「おまえ、どうしてここに……」

「ラーメンをひとつ、頼む」


 なにも気にしていない風に注文した彼に、紫水は動揺を隠せないまま接客する。


「定番の醤油、新作の味噌がございます」

「俺は新しいものは試してみたくなるたちでね。っていうのは紫水が一番知ってると思うが」

「味噌ですね」


 なにか言いたげな彼の言葉を遮って、厨房へ引っ込んでしまう。


 お福のことを伝えるためにわたしも厨房へ行くと、紫水は優しい笑顔で迎えてくれた。


「おかえりなさい。ずいぶん遅かったけど、巾着選びに苦戦してた? お福はどうしたの?」

「ただいま。お福ちゃんね、すごい熱があったの。だから“水証会”のお社に送り届けてきたよ」

「ひとりで行ったのかい? 危険だからだめだって言ったでしょ、危ない目には遭わなかった?」


 槍を持って追いかけてくる追っ手たちの姿がフラッシュバックする。間一髪のところで助けてもらえなければ、また捕まって、今度こそ逃げられなかったかもしれない。

 けれども「行ってはいけない」と忠告してくれていた紫水にはそのことが言いづらく、


「お福ちゃんを送っただけだし、なにもなかったよ。大丈夫」


 と嘘をついてしまった。

 なら良かった、と言って彼が浮かべる安堵の笑みを見ると、なおさら本当のことを言いづらくなる。


 食器の片付けや会計を手伝おうと店に出る。


 先ほどまであの男性が座っていた席には猫の女性が座っていた。

 きょろきょろと店内を見回すと、彼は大きく目立つのですぐ目についた。壁に寄りかかり、腕を組みながら眠っている。立ったまま寝るとは、相当疲弊しているのだろうか。


 わたしたちが忙しなく動いている間、彼はずっとそうしていた。客が皆、「なんだ?」と言うように彼を見るが、本人に視線を気にする様子はない。


「もう客もまばらだし、僕ひとりで大丈夫だよ。きよのちゃんはお風呂に入っておいで」


 そう言われて、わたしは居住スペースに繋がる階段へと向かう。


 階段の前にはあの男性がいる。なぜだか「目を覚まさないといいな」と考えながら横を通った途端、


「なあに無視してくれてんだよ」


 と彼の低い声に呼び止められた。フラグを立ててしまった、と後悔する。


「紫水を待っているんですよね? そろそろ閉店なので、彼ならあと少しでこちらに来ますよ」

「わかった。……あんた、もしかして“陽の側”の人間か? こっち側じゃねえ臭いがする。だからあいつらにも追われてたんだろ?」


 ほとんど確信を持って尋ねられているのは明らかなので、どう答えて良いかわからず、苦笑いしてただ頷いた。


 ふと彼に言っておかなければならないことを思い出す。言葉を続けようとするのにも構わず、わたしは彼に一歩近付いて嘆願した。


「追われていたことは、紫水にはどうか秘密にしてください!」

「あぁ? あいつに怒られでもするのか?」

「いえ、彼はきっとわたしをひどく心配します」

「心配させときゃあいいじゃねえか」

「彼の忠告を無視して勝手な行動をしたのはわたしだから、心配してもらう資格なんてない」

「別に紫水は好きで心配してるだけだろうけどな。忠告を無視したのにはなにか理由があったんじゃないのか?」


 なにを言っても言い訳になるような気がして、黙り込んでいると、店を閉めた紫水がこちらに駆け寄ってきた。


「ずいぶん仲良くなったみたいだね?」

「まあな。一緒に逃げた仲だから」


 ちょっと、と小さくいさめる声を受けても彼はにやにやと意地悪く笑っている。

 不思議そうに聞き返す紫水に、不自然なほど大仰な言い方で、


「大量の“虫ども”に襲われてな。俺が例の黒煙を見せたら逃げていったが」


 と言った。焦るわたしに一瞬視線を遣り、「くっくっく」とおかしそうに笑う。


 憤慨して顔を真っ赤にしたわたしに苦笑しながら、紫水は彼に優しい声色で言う。


「あまり見せないほうが良いよ、さらに誤解されると黒曜こくようが危険だ」

「相変わらずおまえはお人好しだな。まなびや時代となんも変わらねえ。俺はそういうところがいけすかねえと何度も言ってるのに」

「そう言われてもなあ」


 嫌悪感を帯びた男性の目に、紫水はいつも通り穏やかな視線を返す。


「お前だって俺がここに来たとき、微妙な顔してたじゃねえか。俺のこといけすかねえと思ってるんだろ?」

「そういうわけじゃないさ。ただあまりに懐かしい顔を久しぶりに見て、戸惑っただけだよ。黒曜はすっかり初対面のふりをするし」


 二人の間には気軽な空気が流れていて、彼らの関係には年季が入っていることが窺える。“まなびや”とは学校のことだろうか。


 発話したほうをきょろきょろと見ているわたしに、紫水が言った。


「紹介がまだだったね。こちらは黒曜。僕のまなびやでの同級生で、隣町にある花崗かこう神社の跡継ぎ」


 黒曜にも同じようにわたしを紹介すると、彼はまたにやにやと嫌な視線をこちらに向ける。


「ほぉ、紫水の好みはよくわかんねえな」

「何言ってるの。この子は“陽の側”から来た子で」

「そんなこと言われなくても臭いでわかる。もう婚礼は終えたのか?」

「ううん、きよのちゃんとは今のところ結婚する予定はないよ。彼女は今、元の世界に戻る方法を探してるんだ」

「はあ? 結婚しないと、元の世界に戻っても意味ないだろ。だってどうせ……」


 紫水は慌てた様子で黒曜の口を塞いだ。

 口を塞いでいた手を力づくで引き剥がした黒曜が、顔を不快感に歪めてなにか言いかけたが、紫水はあからさまに話題を変えた。


「黒曜の神社のほうはどう? 相変わらずお客さんで賑わってるかな?」

「ああ、『花崗神社で絵馬を書くと願いが叶う』って噂が広まって、人が殺到してる。まあ絵馬の客と俺目当ての女で半々ってところだがな」

「黒曜はいつになったら女の子遊びをやめるのやら……」

「向こうから勝手にやってくるんだ、俺は悪いことしてねえだろ。つうか、おまえこそ、せっかく女にちやほやされてるのに相手にしないなんてひどいとは思わないか」


 肩を組まれた紫水は戸惑いつつ、なに言ってるの、と言い返す。その表情には遠慮がなく、まるで学生のようだ。


 学生の頃はこんな感じだったのかなと考えながら、わたしは彼の彼らしくない表情をぽうっと見つめていた。

 温厚で綺麗な紫水が、女の子たちに人気でないはずがない。少し考えればわかることなのに、なぜだか驚く自分がいる。


 わたしの様子に気付いた黒曜が、紫水をぐっと引き寄せて、


「運動では俺、勉強では紫水がまなびやで天下取ってたからな。そういう男を、女たちは放っておかないものだろう? あんたも含めてな」


 とわざとらしく言った。


 紫水は少々、わたしがなんと返答するか気にしているようだったけれど、興味はまなびや時代のことに移っていた。


「紫水は勉強が得意だったんだね」

「うーん、どうだろう。本当は僕よりも黒曜のほうが賢かったと思うけど、こいつは全然勉強しなかったからなあ。初等科では黒曜が一番成績優秀だったよ」

「そう言われても、俺は勉強してもしなくても神社を継ぐって決まってんだ。やる気が出るわけねえだろ。それに紫水こそ競争が嫌いだなんだとぬかさなければ、俺よりも運動神経は良かったさ」

「あはは! 二人とも素直じゃないね」


 唐突に笑い始めたわたしに、二人の怪訝な視線が注がれる。本当になにが“素直じゃない”のかわからないような表情を見て、さらに笑ってしまう。


 互いを褒め合っていることに気付いていないのか。

 疎ましく思っているように装いつつも、相手のほうが自分よりすごいんだという尊敬の思いがひしひしと伝わってくる。友人を自慢されているようにさえ感じる。

 それなのに本人にその意識がないとは。


「二人は仲良しなんだね」


 彼らは懲りずに、わたしの言葉を否定した。

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