17. 同衾と芳香。

 夜が更けて眠気が限界に達したのだろう。黒曜は無遠慮にも、


「おい、ここに一晩泊まらせろよ」


 と言い出した。

 空いている部屋はないと紫水が説明しても、「おまえらが同じ部屋で眠れば良いだろう」と引かない。


 了承していないというのに、彼は勝手に居住スペースのある二階へと階段を上がっていく。その目は今にも閉じてしまいそうで、確かに帰すにも帰せない。


 彼の後をついていくと、階段から一番近いふすま、わたしの部屋の襖を開けて、今日に限って敷きっぱなしだった布団に倒れ込んだ。「ちょっと」と声を掛けても反応はなく、もう眠りに落ちていた。


「わたし、潔癖なところあるんだけどな……」

「黒曜は昔からこうだし、なんなら、女の子なら俺が寝た布団に寝たいものだろうとか本気で思ってるんだよなあ。元同級生として代わりに謝るよ」

「謝るべきはこの人だよ、紫水はなにも悪くない」


 わたしの部屋の敷居をちょうどまたがないところで彼は立ち止まっている。部屋に入らないように気遣ってくれているらしい。

 勝手に布団を使う黒曜と紫水とを比較しながら、わたしは紫水のほうが好きだな、と漠然と考えた。


 先に風呂に入らせてもらい、さっぱりした身体で浴室から出ると、紫水が待っていた。

 彼は身を翻して彼自身の部屋へわたしを導き、


「僕は今日、店のほうで寝るよ。きよのちゃんは僕の部屋を使って。敷き布団は予備がないから僕のを使ってもらうことになっちゃうけど……」


 と言った。

 わたしはとっさに下の階の配置を思い浮かべたが、快適に眠れるところなんてどこにもない。なによりラーメンの油が跳ねていて、床はべたつき、油のしつこい臭いが店中に漂っている。

 家主をあそこに追いやって自分が快適な部屋を独占するのは、さすがに胸が痛い。


「店では寝づらいでしょ? 明日も営業あるし、寝不足は良くないよ。いいよ、わたしが下で寝る」

「だめだよ、外からの視線を完全に遮ることは出来ないし、危ないよ。僕が寝る」


 そんな問答を繰り返した後、わたしは痺れを切らして半ば投げやりで言った。


「じゃあ二人で紫水の部屋で寝よう⁉︎」


 途端に顔を真っ赤にして早口でなにか言う彼の手首を掴み、わたしはずかずかと部屋に入る。

 片手で布団を敷き、無理やり引っ張って紫水を布団に投げ出した。背中を打ったような音がしたが、彼が抵抗しようと思えば出来たはずなので気にしない。

 掛け布団をそっと掛けても彼は何度も起き上がる。


「せめて布団はきよのちゃんが使って! 僕は床で良いから」

「明日は営業だし、しっかり寝なきゃだめだって! わたしはどこでも眠れるから」


 またらちが開かないと感じて、わたしは黙って紫水と同じ布団に入った。


「どうして入るの⁉︎」

「わたしは紫水を信用してるし、こうすれば二人ともちゃんと眠れる。一番効率的でしょ? はい、おやすみ」


 彼は初めこそ、起き上がって布団から抜け出そうとしていたが、目を瞑ってなにも言わないわたしを見て、諦めたらしい。もしかしたら変に動いてわたしを起こさないように、と気遣ってくれたのかもしれない。


 寝たふりをして彼の様子を窺っていることなど知るわけもなく、すっかりわたしが眠ったと思っているらしい。


 おきてとは言え婚約しようとしていた男女が、布団の端と端で反対を向いて眠ろうとしても、なかなか上手く眠れないものだ。

 提案したわたしでさえ、背後で彼の息や動きを感じ取るたびに意識をそちらに向けてしまう。


 次第に意識は布団から漂う香りに移った。紫水の優しさや寛容さを表したようで、花の柔らかな芳香をも含んだ、甘い香り。

 元よりわたしは彼の香りに好感を抱いていたので、緊張するどころかむしろ安心して、あっという間に眠りについた。


 一度も目が覚めることもなく朝を迎えた。香りのおかげか、ここに来てからの約二ヶ月間で一番すっきりとした目覚めだった。

 すでに紫水の姿はない。


 眠るとき、布団の端に陣取って紫水とは反対を向いていたはずが、起きたとき布団の真ん中にいた。さらに紫水がいたほうを向いている。

 彼がもしこの時間まで寝ていたら、わたしは彼の背中に引っ付くような形になっていただろう。想像すると恥ずかしさで顔が赤くなる。


 洗面所で顔を洗い、軽く手ぐしで髪を整える。

 ここで暮らすうち、和服の振る舞いにも慣れてきて、なんだか顔立ちまで変容してきた気がする。次第に“月の側”の人になっていくのを感じる。毛先に残ったカラーリングの跡が、わたしが“月の側”の者ではないという数少ない証拠だ。


 下の階に降りるときに通ったわたしの部屋は襖が閉まっていて、そっと開けてみると、まだ黒曜がうつ伏せで寝ていた。大きな彼の足先は布団からはみ出している。


 静かに襖を元に戻して階段を降り、カウンターの内側に立つ紫水の顔を見るなり、わたしは仰天した。


「どうしたの⁉︎ ひどいくま」

「ええっと、言いづらいんだけど……きよのちゃんが後ろにいると思ったらあんまり眠れなくて。昨日風呂に入れなかったから朝早くに入ったのに、やっぱりくまは消えてない?」

「うん。でもそっか、昨夜はわたしが無理やり寝かせちゃってごめん。それと、うーんと、一緒に寝てごめん、かな」

「謝るのはおかしいよ。変に意識した僕のほうが悪いし、こちらこそごめん。女性が同じ布団にいるなんてすごく久しぶりで」


 ああ、余計に気持ちが悪いことを言ってしまった、ごめん、ええと……と続ける紫水を、わたしは笑顔で制止した。


「あはは、もう大丈夫」


 彼は安心したようだった。


 確かに他の人に言われたら少々ぞっとしたであろう言葉だったが、不思議と何も感じなかった。彼の本心を盗み聞いて知っているので、まあ意識されるよね、という謎の冷静な思考があるからかもしれない。無理に同じ布団にしたのはわたしだから、それをどうこう言うのは筋違いだ。

 それに彼が先に起きてくれていなければ、今朝はわたしが彼の背中に引っ付くことになっていた。先に目が覚めていたことには感謝しなくてはならない。


 わたしにつられるように笑顔を見せた紫水は、口元を和服の袖でそっと隠す。その上品な仕草に合わせて、あの柔らかな香りが鼻腔をくすぐる。

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