35. きっかけは夢じゃない。
居間に姿を見せたかおりちゃんは、また一段と大人っぽくなっていた。彼女が短大を卒業して社会人一年目を迎えてから、会うのは初めてだった。
首元にパールがあしらわれたオレンジ色のブラウスに、ベージュのタックパンツ。髪を後ろでひとつに括った姿は、絵に描いたような社会人だ。
「きよの、休講だとか言ってさっき帰ってきたの」
「わ、奇遇。私も今日、職場のパソコンが故障してさ。上司に帰れーって言われて帰ってきたところなんだよー」
久しぶり、と言いながら、わたしたちは手を振り合って、そのまま握り合う。
職場とか上司とか、わたしには存在しない物事の名前を聞くと、なんだか地に足が着かないような気持ちになる。他人の見た夢の話を聞いているような感覚と似ている。
かおりちゃんとは姉妹のように育ってきたが、これからの人生はもう関わることがないのかもしれない。わたしの人生設計はこの数ヶ月でずたぼろにされてしまった。
会うのは最後かな、と考えていると、つい思い出話をしたくなる。
「最近ね、お母さんのことを思い出す出来事があったの。いつでも忘れているわけじゃないんだけど……ちゃんとお母さんの気持ちと向き合わなきゃなって思わされる出来事があったっていうか」
自分から思い出話を始めたくせに、前置きからしどろもどろになってしまった。けれどもわたしを訝しむこともなく、かおりちゃんは「うんうん」と相槌を打ってくれる。
「わたしたちが小さい頃、よくかおりちゃんも一緒にお見舞いに行ってくれたよね。それでお母さんに長い髪を結ってもらってた。わたしは髪が短かったからやってもらえなくて、すごく羨ましかったのを覚えてる」
「髪を結ってもらってた? なんの話?」
「あ……たぶん、わたしがこっそりお母さんのところに行ったときだと思う。かおりちゃんがひとりでお見舞い来てるのを、覗いちゃったんだ。ごめん」
「ううん、そういうことじゃなくて」
戸惑った表情の彼女は、首を振って言う。
「私、きよのちゃんのママに髪結ってもらったことなんてないよ。前のことだから覚えてない? 私も髪短かったんだよ」
え、と掠れた声しか出なかった。
そんなわけがない。わたしははっきり見た。長いストレートヘアに櫛を通し、微笑む母の顔を。
「でも、わたしは確かに見たから、そんなわけ」
「ただいまあ」
溺れるような苦しさの中、反論しようとしたわたしの言葉を遮って、呑気な声が聞こえて来る。
父が帰ってきた。居間に入ってきた父の顔を見ると涙が出そうになった。相変わらずわたしは父親似で、目がぱっちりしていて丸顔だ。父は年齢の割に若く見える。
「お、かおりちゃんいらっしゃい。会うたびにきよのとの年齢差が広がってる感じがするなあ」
わたしをいじりながらふらりと近寄ってきた父は、頭にぽんと手を置いた。仲の良い親子とはいえ、普段はめったにこんなことはしない。
涙が込み上げるのをぐっと堪えている間に、かおりちゃんが尋ねる。
「ねえ、パパさん。小さい頃、私もきよのちゃんと同じくらい髪短かったですよね?」
「そうだったなあ。後ろ姿だとどっちがどっちか分からなくて困ったよ」
「きよのちゃん、私がママさんに髪結ってもらってたのを見たって言うんです」
「ええ? 夢かなんかじゃないか」
そんなわけ、ない。だってわたしが美容師を目指すきっかけはあの光景だったから。日常の一コマだが、人と人が触れ合って、かおりちゃんがどんどん可愛くなっていくのは、見ているだけでも幸せだった。わたしもヘアアレンジをして、人をあんな風に満たされた笑顔にしたいと思った。
人生の転機とも呼べる出来事が夢だったなんて到底思えないのだ。
しかしこれ以上食い下がっても、わたしが変に思われるだけだろう。二人が嘘をついているはずがないし、わたしの記憶違いのはずもない。今のところこの矛盾は、矛盾のままそっとしておくしかない。
かおりちゃんはタッパーに詰めたひじきを置くと、
「私のお母さんから。作り過ぎちゃったからぜひ皆さんで食べてください」
と言って帰っていった。じゃあまたね、の一言で別れるのは惜しかったが、“また”があるかのように繕った。
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