7. 狐の少女は迷子らしい。
いつの間にか眠っていて、そっと
おはよう、と言う紫水の涼やかな声が心地良い。
「廊下の突き当たりに浴室があるから使って。着替えは適当に用意したけど、もし合わないなら明日買いに行こう」
襖から目だけを覗かせるようにして紫水が立っている。
それ以上近付いてこないのは彼なりの気遣いなのだろうか。わたしも境内で声を荒げた手前、穏やかに接することなんて出来ず、「わかった」とぶっきらぼうに答えた。
わたしは起き上がって髪をかき上げる。学校に行くときはいつも髪をアイロンで巻いていたが、こちらに来てからはアイロンがないのでストレートヘアのままだ。
首元までの長さの髪に、肩くらいまである長い一本の毛を見つける。抜いてしまおうと手で探るわたしに、紫水は、
「河津さんに聞いたよ、危ないところだったって。彼の言う通り、僕なしで外出はやめて欲しい。店にいてもやることがないと思うけれど……カウンター横の本棚にある本をどれでも読んで良いから」
と一息で言って、下の階へ降りて行ってしまった。
しんと静まり返った廊下を歩いて浴室へ向かう。歩くたびに木の床が軋む。
浴室に入るとわたしは思わず「わあ」と声を上げた。
浴室全体も浴槽も、すべてが木造だ。湯が張られた浴槽からは、木の良い香りが漂ってくる。いつだか旅館の大浴場で嗅いだ香り。ヒノキだったか。
入ってすぐのところにはわたしの衣服が置いてある。しっとりと肌に馴染む藍色の浴衣と、朱色で緻密な花の刺繍が施された白色の帯。ひとりで着られるかなと一抹の不安を抱えつつ、シャワーを浴びた。
熱い湯はわたしの身体だけでなく、心までさっぱりさせてくれる。
このまま変な世界でぼうっと生きて、紫水と結婚させられるなんて御免だ。何が出来るだろうと考える。
身体をせっけんの匂いが包むまま、わたしは浴室を出た。
浴衣を着るのに少々手こずったが、いざ着てみると普段とはイメージががらりと変わって可愛らしい。気分が高揚して、ついひとり鏡の前で回った。
一度は自室へ戻ったが、紫水の言う通り手持ち無沙汰だ。
喉も渇いたので一階へ降りる。店のカウンターには誰もいない。時計を確認すると昼過ぎだったので、ちょうど昼食の忙しさが落ち着いた頃合いだろう。
紫水までいないのは不思議だと思ったが、店前に『出前中につき店主不在』の看板があるのを見つける。どうやら建物内にはわたししかいないようなので、本棚に並んだ本を読むことにした。
「『穂狐教の教え』、『月の側は百年後に大発展を遂げる⁉︎』、『朝の五分で作れる簡単おかず』……実用書ばっかり。あ、これ読みやすそうかも」
わたしが手に取ったのは、『月日はメグリ』というタイトルのファンタジー小説だった。ぱらりとページをめくると、わたしはたちまち夢中になった。
主人公の少年、めぐるは、ある日“陽の側”へと転移してしまう。狐族である彼は“月の側”では周囲にちやほやされていたが、種族の概念がない“陽の側”では、興奮すると出てしまう狐の尻尾のせいで壮絶ないじめに遭う。
彼は“陽の側”で唯一出来た友人とともに、元の世界へ帰る暗号を見つけた……というところで、わたしは本を閉じた。
カララン、というドアベルの音が、物語に没入していた意識を現実に引き戻したのだ。
店主不在の札が出ていたのに。そう思いながら扉のほうを見て、わたしは仰天した。
扉の前には、紅色の浴衣を着た小さな姿があった。遠目で見ると花火大会で見掛ける少女のようだが、“少女”とは到底呼べない。
顔が狐そのものだった。黄金色の毛に包まれた顔、きゅっと吊り上がった目、真っ黒な鼻、前方に出た口。口からは鋭い牙が見える。一方で身体は人間となんら変わらない。
河津と同じような“化物”だ。
初めは恐怖を感じたが、危害を加えてくるどころか泣きじゃくっていたので、少々警戒心が緩んでしまう。彼女は涙声でなにやら言っている。
「ママぁ、どこー」
「……お母さんとはぐれちゃったの?」
「
涙を拭う手が震えている。化物と言えどかわいそうに思えて、つい声を掛けてしまった。
外を見ると、日が落ち始めて空を朱く染めている。店内からだと見えないが、遠くには相変わらずヴィヴィットピンクの“濁り”が溜まっているはずだ。確かにこの中をひとりで歩くのは怖いだろう。
「わかった。わたしも一緒に行くよ。ママの居場所に心当たりはある?」
「うん。ママの匂いを追いかければ、会えるはずなの」
わたしは紫水や河津の言いつけを守らずに外に出た。“陽の側”の海で助けたことのある迷子の姿が、この狐の少女に重なって見えた。
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