21. 老女の頼み。
先ほどまで皆がどんちゃん騒ぎをしていたカウンターを振り返る。使ったグラスやお猪口が乱雑に積み重ねられていて、思わずため息をつく。
紫水が起きる前に少し洗っておこうと水道前に移動したとき、扉が静かにベルを鳴らして開いた。
顔を上げると、そこには小さな老女が立っていた。人間と似た顔立ちをしているが、顔全体がシマウマのように白黒のボーダーになっている。頭のてっぺんには厚みのあるものをぐるんと巻いたような耳が生えている。
「いらっしゃいませ」
紫水がいないときに接客をするのは初めてだ。努めて威勢の良い声を上げて、あいにく今日は営業していないことを伝えようとする。
しかし先に話し始めたのは彼女だった。息せき切っていて、聞き取りづらいほどに早口だ。
「醤油ラーメンを二杯、作ってもらえないかしら。うちの旦那がね、“さいご”に食べたいって言って聞かないの」
彼女の言う“さいご”が、初めは脳内で“最後”に変換されたが、少し時間が経って“最期”であることに思い至る。
焦燥する様子から、ラーメンを食べたいと言う彼の最期は目前なのだと窺える。
叶えてあげなくちゃ、と思った。それは当然わたしの願いでもあるが、なにより、紫水はこういう人々のために店を営んでいるはずだ。
老女は足が震えていた。歩いてきた疲れからなのか、恐怖や悲しみからなのかはわからないが、とりあえず席に座るよう促す。
唯一の客を待たせて二階へ上がり、顔色が悪く、頬だけが赤い紫水を叩き起こした。普段より気が緩み、目を擦る彼は本当に具合が悪く見える。
「ねえ、醤油ラーメンを作って欲しいの! 今、お年寄りのお客さまが来ていて」
事情を説明するうち、いくらか仕事モードに切り替わった彼は、部屋を飛び出して階段を下りていく。
彼の足音に続いて悲鳴と物音が聞こえ、追いついたわたしは尻餅をつく紫水の無様な姿を見た。
「急いで作らせていただきます。ほんの少し時間をください」
と言った。
彼の笑顔には人を安心させるパワーがあって、老女も例に漏れず、ほっとした表情で笑みを返す。
紫水は一切無駄のない動きでラーメンを作っていく。隣に立つわたしに「菜箸」、「スープ」と短く言い、黙々とそれらを渡していく様子は、まるで手術のようだ。
「お待たせ致しました」
紫水の涼やかな声とともにカウンターに置かれた二杯のどんぶりに、老女はうっとりした視線を注ぐ。早くも夫との至福のひとときを夢想しているらしい。
紫水は険しい表情をして頭を掻く。
「二杯になると結構重いし運ぶのも難しいから、僕が届けたいんだけど、まともに歩けないんだよな……」
彼はそう言いながらどんぶりを、出前用の銀色の箱である
手提げ袋のようにそれを持つ紫水の手から引ったくり、わたしは挙手する。
「はい、わたしが行ってくる。岡持の運び方は練習したことあるから」
「でも僕なしで外に行かせるわけにはいかない。任せられないよ」
「じゃあどうするの? そのラーメン作るときの重心移動すら危うい足で、ラーメン届けるの?」
詰め寄られた紫水は、目を合わせず口ごもる。そして渋々といった調子ではあるものの、
「本当に申し訳ない。今回はきよのちゃんにお願いする」
と言った。
許可を得るとすぐに老女に家の場所を聞いた。家はここからそう遠くない。道のりも、大通りをまっすぐ進んで、二回右に曲がるだけだ。
自信の
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます