22. 焦点を合わせないように。

 老女は縞井しまいと名乗った。左足が不自由で、何度も足がもつれて転びそうになりながらも、わたしも早足でないと追いつけないほど歩くのが速い。

 道中、彼女はずっと夫との思い出を語っていた。カフェで相席したことがきっかけで親密になったことから、知り合いを皆呼ぶほど大きな結婚式を挙げたこと、そして花畑に毎年行っていることまで、彼らの足取りをすべて教えてくれるかのように。


 岡持はぐらぐらと揺れ、少しでもつまずいたらすべてひっくり返してしまいそうなほど不安定だ。

 先ほど紫水に堂々と「練習したことがある」と語ったが、実は河津たちと遊びで岡持を触ってみただけだった。

 そのときは岡持に水を入れたコップを載せていたのだが、店の端から端まで歩くのすらやっとだった。


 そんなわたしの不安を縞井に感じ取られないように、笑顔で受け答えするように努めた。彼女は幸いにも店を出たときと同じ調子で夫との日々を回顧している。


 歩いているうち、彼女は悲しくて仕方がないからこんなにも饒舌なのだと気付いた。

 悲しいとき、特にその悲しみに対抗する術がないとき、人はおよそ三パターンに分かれる。ひとつは悲しみに暮れて涙が枯れるほどにむせび泣く人。ひとつはぶつける先のない怒りを周囲に張り巡らせる人。あとひとつは現実に焦点を合わせないように過去の思い出を語る人だ。


 彼女の胸中を思うと涙が出そうだったが、本人でさえ流せていない涙をわたしが流すのは違う。ぐっと堪えて、縞井に合わせ、日常のたった一コマのように振る舞った。


 店の間にあって遠くからでは分かりづらい横道へ曲がると、大通りとは打って変わって、古い家々が立ち並ぶ景色が広がる。ところどころ瓦が剥がれた家も多く、お年寄りが多いからか道に人の姿は少ない。


 少し歩いた先の小道へと再び曲がると、今度は立派な家々が立ち並ぶ通りへと出た。

 その中でも、高い塀越しにぎっしりと木々や草花が植わっている広い庭が窺える家が、一等目立っていた。その煉瓦れんが造りの家は、なんと五階建てなのだ。

 アパートかシェアハウスか、その類いであろうと思っていると、彼女はその建物を指差して言う。


「わたしの家はここよ」


 思わず素っ頓狂な声を上げる。しかし言われてみると、縞井の着物は緻密な花の刺繍が施され、花の縁には真珠があしらわれている。生地もしっとりと重みがあって、きっと高級な着物なのだろう。

 そういえば道中、「家にはわたしと彼の二人きりだから、彼の元気がないと淋しいの」と言っていた。こんなにも広い家に二人とは、どのような暮らしをしているのか想像すら出来ない。


 ふと、縞井夫婦に愛される紫水のラーメンはすごいなと思った。

 安さを基準にして食事を選んでいないであろう彼らが、あのラーメンを愛すのだ。単純に美味しさで好まれるラーメンだということだろう。

 確かに彼のラーメンには、何度でも食べたいと思わせる力がある。


 建物の玄関あたりを指していた指先が少し上を向いた。


「あの二階の部屋で旦那が待っている、はず」


 言葉の最後が消え入りそうで、胸がぎゅっと痛む。熱々のうちに食べてもらいましょう! と取り繕うように言って、縞井に続いて家に入った。


 いくつもの扉を横目に、大胆なハイビスカス柄の絨毯が目を引く長い廊下を真っ直ぐ進む。廊下の端に階段があって、上がるとまた同じように長い廊下があり、最奥に階段が見える。

 どうやらジグザグに上がっていく造りらしい。

 煉瓦の壁と、派手な絨毯、約一メートルごとに壁に吊るされたランタン風の照明は、まるで迷宮のようだ。


 廊下の奥のほうに位置する部屋の前で縞井は立ち止まり、一息ついてから、扉をノックした。


「お父さん? ラーメン、運んできてもらったわよ。入ってもいい?」

「おお、ぜひお会いしたい」


 しわがれた声が聞こえてきて、扉を開ける。


 窓に面して置かれたベッドには、妻同様、顔がシマウマそのものの、目がくぼんだ老人が横たわっていた。頭髪は真っ白で、白い部分の肌と同化して見える。呼吸器を患っているのか、ひゅーひゅーと喘鳴音が聞こえる。

 しかし想像していたよりは元気そうだ。きっとラーメンが食べたいと言えるほど食事はこれまで通り出来ていて、痩せこけてはいないからだろう。


 岡持をベッド脇の机に置いて、蓋をずらす。途端に漂う醤油と出汁の香りに、夫妻ともにうっとりした表情を浮かべた。


 ベッドの膝あたりの位置に机を取り付けて、その上に二杯のラーメンを載せる。近くの食器棚から箸を二膳取ってきて、ラーメンの前にそっと置く。


「いただきます」


 縞井は箸を手に取ろうとして、やめた。そして顔を上げ、斜め前にいる旦那をじっと見つめた。


 麺を啜る音が、小鳥のさえずりしか聞こえない室内に響く。心配になるほど頬張った麺をごくりと飲み込んだ旦那に、


「ああ、美味しい。さあ早く、君も食べよう」


 と促されると、ようやく縞井も箸を持った。


 液面に箸がつきそうなところで再びぴたりと手を止め、後ろで座って見ていたわたしを振り向いた。


「運んできていただいて、悪かったわね。道中はわたしが話しすぎてしまったけれど、あなたのような若い人と話す機会なんてそうそうないから、新鮮で楽しい時間だった。ずっとここに引き留めておくわけにもいかないでしょう? どんぶりはまた今度、店に返せば良いのかしら」

「いえ、言ってくだされば、引き取りに参りますよ」

「……じゃあ来ていただこうかしらね」


 一瞬の沈黙を経て、泣きたい気持ちを隠すような笑顔で言った。どうして少々躊躇ったのか理由がよく分からず、わたしも真似をして笑顔で受け答えする。


 出来るだけ早く返却したい、という彼女の希望により、明後日引き取りに来ることになった。


 玄関まで見送ると言ってくれたが、丁重にお断りした。ラーメンが冷めてしまうし、二人の素敵な時間をなるべく長く過ごして欲しいと思ったからだった。


 夜はもうすぐそこまで迫っていて、家を出たときには空は藍色がかっていた。藍色から漏れ出すように輝くヴィヴィットピンクが差し色になって、洒落たシャツの柄みたいだな、と思う。

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