23. 滴り落ちた濁りは変化する。
縞井の夫の姿を見て、記憶の奥底に眠っていた母の姿が思い起こされた。三歳のときに見た、床に臥せっている母の姿。
彼女は早い段階で食事がほとんど出来なくなり、わたしの記憶の中での母はたくさんの管に繋がれていた。病室であっち向いてほいをしたとき、チョキを作る手がひどく痩せていたのを覚えている。
人は、想像していたよりもあっという間に死に近付いてしまう。一度健康な日々の階段を踏み外したり、病の道に迷い込んだりすると、もう戻れないのだ。
そんな不可逆の舞台で、わたしたちは必死に踊っている。時折誰かの手を取りながら。
舞台上の仲間が舞台から転げ落ちそうになったとき、わたしたちは自分の足下にも気を配りつつ、さりげなく仲間の腰に手を回す。そうして差し迫った危険に気付かないふりをして、踊り続けている。
着々と舞台が
先ほどは縞井が話し続けてくれていたが、今はしんとしている。
古びた家が夜の怖さを増幅させて、次第に早足になっていく。
空がいつもより禍々しく……ええと、普段から禍々しいのだが、なんというか。
藍色が、わたしの真上にぎゅっと集まり、暗色の密度が高いような気がするのだ。濁りとのコントラストがより際立っている。
ぞくりとして腕をそっとさすったそのとき、空の藍色は一転して、ヴィヴィットピンクになった。まばらに広がっていたピンクがすべて、真上に凝縮されたのだった。全体がピンクに染まった空は、圧迫感がある。
なにか良くないことが起きる。予感したものの逃げることも出来ず、ただ空を見つめ、そのなにかが起こるのを待ってしまう。
集合したヴィヴィットピンクは、雫のように空から垂れ下がり、重力に耐えられなくなったようにぽたりと地面に落ちた。わずか三メートルほど先の出来事である。
石畳の地面に目立つシミを作ったが、水が蒸発するようにその色は薄くなっていった。
しばしなにも起きず、拍子抜けした。わたしが見た光景は夢だったのかとさえ思わせる。
しかし地面から聞こえてくる轟音は紛れもなくなにかが起きる前兆で、息つく暇さえ与えてはくれない。
轟音が鳴り止んだ。その瞬間、雫が落ちたあたりが発光した。
目が眩み、光が収まってからもしばらく視界が奪われたままだった。
時間が経ってぼんやりと見えてきたのは、ヴィヴィットピンク色の毛束。その下には筋肉が発達した脚と
馬だ。ヴィヴィットピンクの毒々しい色をしていて、黒い空気を纏った馬。
背を向けて凛と立っている馬は、わたしの目の高さに尻尾があるほど大きい。もはやファンタジーの世界に出てくるような生き物としか思えない。
目と同じ高さに尻尾がある“それ”は、顔をゆっくりこちらに向けた。しかし向き合う前にまた顔を向こうへ背けてしまう。
鼻息荒く、前脚をしきりに動かし、顔をブルブルと震わせる。やけに興奮した様子を不審に思って、馬の視線の先を追ってみると、ぼんやりと背が高く体格が良い人影が見えた。
その男性らしき人影に向かって馬は走り出した。人影は大きな舌打ちをすると、手に提げていたビニール袋を放り投げ、スピードスケートの構えのように身体を低くした。
すると身体がみるみるうちに馬と同じくらいに大きくなっていくではないか。さらに二足で立っていたのが四足になり、身体中にもさもさした毛が生えてくる。長い尻尾が風に靡く。
遠目からでも見えるほど大きな三角形の耳が生えた“元人影”は、今はすっかり獣だ。獅子の化け物を追い回していたときの紫水に似ている。きっと彼は狐族で、狐に変化したのだろう。
狐は馬をじっと見ていたが、ふとその奥に立つわたしを視認した。
「ぐるる……」
低く唸ると、馬が反応出来ないほどの速さでこちらに走ってきた。足がすくんで動けないわたしの目の前で足を止め、唸り声と同じくらいの低音で、
「どうしてきよのがここにいるんだ。俺が戦って退治してやるから、とりあえずお前は影に隠れて静かにしていろ」
と言う。
その横暴な態度と、近くに来て分かる真っ黒な外見で、わたしは確信した。
この狐は黒曜だ、と。
言われてみれば、長い毛の先が三つ編みを解いた後のようにうねっている。きっと変化前に結っていた三つ編みの名残なのだろう。
「黒曜⁉︎ 一緒に逃げたほうが……」
わたしの言葉を最後まで聞かず、彼は馬めがけて駆け出した。
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