46. 青空。
帰る日の前日、紫水はひどく慈しむ瞳でわたしを見つめながら、
「こうして想いがひとつになったのに、僕たちはこれから違う世界で生きていかなければならないなんてね」
と言った。すぐに別れが訪れる淋しさは、わたしもひしひしと感じていた。
ありがとう、と言うたびに、その後に続く「これからもよろしくね」の言葉を飲み込んでいた。わたしたちに未来のことを話し合う余地はなかった。
しかしわたしが“月の側”に残る決断をすることはない。本来いるべき場所に帰るのが正しいことだという考えは変わらないからだ。
「違う世界っていっても、背中合わせで繋がってる。それを心の頼りに、お互い生きていこう」
などという自分に対する励ましを口にしながら、ごまかすしかなかった。
なにも言わずとも、黒曜とお福はわたしたちの変化に気が付いていた。黒曜は悲しそうな笑顔でわたしの手を一度だけ握り、お福はにやにやしながら昔の紫水の写真をわたしに押し付けてきた。
けれども二人はどこか様子がおかしかった。わたしたちがすぐに会えなくなってしまうことを分かっていたからだろうと思う。
水証会の人々が“陽の側”への道を開く儀式は、よく晴れた暖かい日に行われた。夏を目前に、少々暑ささえ感じる。
元々水証会の社があった場所で行われたが、今は焼け失せて更地になっている。ところどころに残っている家らしき跡を見ると少し胸が痛むが、隣に立つ紫水はきっとなにも感じていないのだろう。彼のそういう冷徹さに、恐怖心を抱かないわけではない。
わたしたちは社跡地を取り囲むように生い茂る木々の後ろに身を隠している。
お福がわたしのほうを振り返り、計画を確認する。彼女は水証会について詳しく、目が良いため、わたしの目となって行動をともにすることになっている。
「福が合図したら、黒曜は変化してきよのちゃんを入り口のところまで運ぶ。紫水くんはその棒を持ってついてきて、水証会の皆を蹴散らす。福は少し離れたところにいて指示を飛ばすから、よく耳を澄ませていて」
皆が同時に頷いた。
わたしは高揚感とも
水証会特有の紺色の衣装を纏った人々が円になり、手を広げたり下ろしたりを繰り返す。円から一歩踏み出したひとりが、声高らかに歌い始める。
「陽と月の接する場所は我らの目の前に〜♪」
円の中心から竜巻のように風が渦巻いて立ち上っている。黒曜によると、あの風が文字通り『風穴を開ける』という。
そろそろお福が合図を出す頃だろう。次第にわたしたちの間に流れる空気が重くなっている。
お福が目を伏せてわたしの手を握った。
「きよのちゃん、大好き! 向こうに帰っても福のこと忘れないでね、また会いに行くからね!」
涙声でそう言い、ぎゅっとわたしの腰に抱きついた。わたしはお福の可愛らしい耳を撫で、
「こちらこそ、忘れないでね。ありがとう」
と答えた。
紫水と黒曜はわたしを挟むようにゆっくりと近付き、
「ありがとう。向こうでも幸せに暮らしてね」
とだけ言った。
多くを言わぬ彼らに倣うように、わたしも頷きだけを返した。
お福は涙声のまま叫ぶ。
「ゴー!」
黒曜が狐の姿になって、わたしがその背中にしがみつく。木を薙ぎ倒して儀式のほうへと突っ込んだ。
「何者だっ!」
「皆気を付けろ、こいつらは……俺たちの社を燃やせとけしかけた輩だ!」
怒りで顔を真っ赤にした屈強な男たちが、佩いていた剣を抜き立ちはだかる。てっきり儀式用のレプリカかと思っていたのだが、間近で見ると本物だ。刃物がわたしをターゲットに鈍く輝く。
素早く振られた剣を、紫水が棒で防ぐ。木の棒なので何度も刃物が当たると断ち切られてしまう。それを分かっているから、紫水は剣の柄が当たるようにして剣を防ぎ、生じた隙に膝で剣を弾いて彼らの手から剣を奪っていった。
彼の強さは圧倒的で、わたしと黒曜はあっという間に円の中心へと辿り着いた。
先ほどまで風が巻き起こっていた場所には、ぽっかりと穴が空いていた。ちょうどわたしがするりと通り抜けられる程度の大きさだが、広がったり狭まったりと不安定だ。
一瞬、黒一色の穴の中心に光が見えた。
そのとき木の陰で見ていたお福が叫んだ。
「ゴー! 黒曜、きよのちゃんと紫水くんを穴に押し込んで! 今なら二人入れる!」
「了解!」
彼女のほうを振り向く。思わず「えっ?」という素っ頓狂な声が出た。
黒曜はわたしを背中から下ろすと、尖った鼻先で穴へと押しやった。抵抗できず、あと一歩で落ちるというとき、彼の力が僅かに弱まった。
「……向こうで紫水と仲良くな」
彼は優しく笑っていた。わたしの返答を待たずもう一度鼻先で突き飛ばし、わたしは穴へと落ちた。
真っ暗なスライダーを落下する感覚に襲われる間、上のほうから言い争う声が聞こえていた。
「どういうことだ! 僕は二人と一緒に彼女を見送るつもりでっ」
「こういう計画なんだ、大人しく従ってくれ。……幸せに暮らせよ」
「やめろ、僕たち皆で向こうへ行く方法を探そうと約束してたじゃないか」
「じゃあな」
黒曜の一言を境に、紫水の声はただの叫び声へと変化した。水証会の人々の騒めきは遠ざかっていくのに、彼の声だけが遠くならない。
きっと同じスライダーを滑っているのだ。
白い光に包まれて身体中に力が入る。
思いきり尻餅をつき、はっと目を開けると、そこはわたしが子供の頃よく遊んでいた公園だった。穏やかな風が吹いている。
ぼうっとしているわたしの横に、紫水も同じような滑稽な格好で落ちてきた。
わたしのほうを見て、肩を強く掴む。
「なんだよこれ……僕たち一緒に頑張ろうって話をしたばかりじゃないか……」
涙が溢れ、わたしを抱き寄せる。わたしは彼の背中をさすりながら、お福と黒曜のことを考えた。
「二人から計画を聞いているとき、わたしは何度も『二人もいずれ“陽の側”に来てくれるんだよね、そうしたら向こうを案内するからね』って確認してた。でも黒曜の返事は曖昧で、お福ちゃんは泣きそうな顔しか見せてくれなかった。二人は、“陽の側”に行けるまでには相当時間が掛かる、もしくはもう行けないって思っていたのかも」
「三人で考えればきっと行けた。それに僕がこちらに来たら世界のバランスが取れないよ」
ふと思い出したのは、黒曜が紙にペンを走らせている姿。なにやら計算式をずらりと並べていたが、わたしが高校までで習ってきた数式とは形が異なっていた。
「もしかしたら黒曜、紫水がこっちに来た場合の世界のバランスを計算していたのかも……」
紫水は「どうして言ってくれなかったんだ」と繰り返したが、言ったら彼は“月の側”に残ると頑なになっただろう。それを二人は分かっていたのだ。
わたしが紫水に想いを告げた後、二人はなんだか様子がおかしかった。今思うとあれは企みを隠していたからなのかもしれない。
夏の日射しが次第にわたしの黒髪を熱くする。ラーメンに吸い込まれたあのとき、茶色だったわたしの髪は、すっかり黒に戻ってしまった。
落ちてきたはずの頭上を見ても、爽やかな青空が広がるだけだ。向こうの空とそっくりで、天気も繋がっていることを知った。
紫水の背中をさすって、声を掛ける。
「二人なりの優しさだったんだよ。だってわたしが穴に落ちる前、黒曜は泣きそうな表情をしてた。二人が来られるまでこっちで幸せに暮らそうよ。ほら、わたしの家に案内してあげる」
「突然伺っても、僕、ただの怪しいやつだよ。適当にどこかで暮らす、のもどうだろう、出来るのかな……」
「ううん? 紫水はうちで暮らすといいよ。『わたしの結婚相手です』ってばあばたちに紹介する」
「そんなこと言っても変な目で見られるだけじゃない⁉︎」
おろおろとわたしの後ろをついてきて、おどおどした様子のまま父と祖母に会った。
彼の心配をよそに、二人はわたしの紹介を案外あっさり受け入れた。父は口では「よろしく」と言ったが、ぼろぼろ泣いていた。なにか言いたげだった。
牛乳を買ってくるよう祖母に頼まれ、家を出た。
「どうしてお二人はあんな当然のように僕を迎え入れてくれたんだろう……?」
「わたしもそう思って、さっきこっそりばあばに聞いてみたの。そうしたらね、『全部お見通しなのよ。あすみもきよのも、自分は隠し事が上手いと勘違いしているみたいだけど』って。もしかしたら紫水がこの世界の人じゃないことも、ばれてるのかも」
「あすみちゃんもそうだったけど、皆飲み込みの早さがすごいというか。一言で言うと、度胸がすごいよ」
「あはは、だからこそわたしはこっちに帰って来られたんだと思うけどね」
笑い合っているうちに、スーパーマーケットのある大通りに出た。
そこでわたしはひどく懐かしく感じた。
匂い。匂いだ。これは紫水が『銘杏』で作っていた醤油ラーメンの匂い。
あたりを見回しても、ラーメン屋はない。
隣を見ると、紫水が空を見上げてつぶやいた。
「きっと黒曜たちが僕のラーメンを作っているんだ。彼らのラーメンの匂いがこんなところまで届くなんてね……」
案外“陽の側”と“月の側”は近くにあるのかもしれない。
そんな期待を抱くわたしたちを、母が考案し、紫水が毎日作っていたラーメンの匂いが、温かく包んでいた。
妖狐そ、“月の側”のラーメン屋へ! 〜屋台のラーメンに吸い込まれた先で、きつね男に求婚されています〜 梅屋さくら @465054
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