45. 行き過ぎた好意。

 閉店時間を迎え、客がひとりもいなくなった静かな店内に、ガラス同士が触れ合う軽い音だけが聞こえる。

 厨房に立つ紫水が、大量の食器を洗っていた。泡を広げているように見えるが、どこか上の空で、物思いに耽っているらしかった。彼の瞳はどこか淋しげだ。


 長い睫毛と、高い鼻が際立つ横顔に、思わず見惚れる。しばらく見ていたい気持ちと早く話したい気持ちがせめぎ合うが、結局我慢出来ず話しかけた。


「紫水」


 わたしにまったく気が付いていなかった彼は、はっとこちらを見る。食器を取り落としそうになって、二人で「わあっ」と声を上げる。その声の間抜けさがおかしくなって、目を合わせて笑う。


「どうしたの。なにか忘れ物?」

「……このままだと忘れ物になっちゃうものを、片付けに来たの」


 彼は首を傾げたが、大事な話だと感じたらしい。洗いかけの食器を網に立てかけて、席に着こうと言った。

 向かい合うのは緊張するのでカウンター席が良かったのに、彼は今日に限って二人席に座ってしまった。正面の椅子に腰を下ろしたものの、彼の山吹色の瞳を直視出来ない。


 目を泳がせるわたしを、紫水はじっと見ていた。こういうときはいつも言葉を促さず待ってくれる。


「皆とお別れする前に、心の整理をつけておこうと思って、この頃は毎日皆のことを考えてた。でもね、お福ちゃんのことも黒曜のことももっと考えたいのに、気付けば紫水のことばっかり考えてた。紫水には恩返し出来ないほどいろんなものをもらったなあってことももちろんなんだけど、それだけじゃないことに今気付いたの」

「そ、それって……」


 テーブルの上に揃えられた指先が小さく震えているのが見える。彼の目が大きく見開かれていることが、直視せずとも分かる。


「この間、水証会の人に刃を向けられたとき、わたしは紫水がなにをしようとしているのか少しも分からなかった。でも、聞き返して考えていることを聞くのは後でいいや、とりあえず紫水の言う通りにしようって思ってたんだ。紫水の考えることならきっと大丈夫だって思ってた」

「あ、ああ、信頼してくれてありがとう」

「信頼どころじゃないよ。もうこの身全部を紫水に任せてもいいって、悪いようにはしないだろうって、思考が停止したみたいに思ってる。お母さんはよくお父さんにこう言ってたんだって。『行き過ぎた好意はじわじわと脳を溶かしていくんだね。いつかきよのにも、思考を奪われるくらい好きな相手が出来るといいね』って」


 紫水がごくりと唾を呑んだ音が聞こえた気がした。


「わたし分かったの。いつの間にか紫水への好意は“行き過ぎてた”んだって。ここを離れる前に紫水に言っておきたかったことっていうのはね」

「こ、こっち見て!」


 彼は身を乗り出して、両手でわたしの頬を挟んだ。優しく顔を動かして、気付けば至近距離でじっと見つめ合う格好になっている。自分がこれからなにを言おうとしているのか冷静に考えさせられ、頬が紅潮しているのを感じる。

 手を振り解いて再び顔を背けようとしたが、紫水の「お願い」という弱々しい声が聞こえ、力が抜けた。


 熱があるときのように目の周りの体温が高い気がする。今にも目を閉じてしまいそうだが、紫水の真剣な眼差しに応えなければという気持ちが目を逸らせなくする。


 すっとひとつ息を吸い、一息に言った。


「わたし、紫水のこと好きみたい」


 彼の瞳の山吹色が、波打つように揺らぐ。ぱっとわたしの頬から手を離し、今度は彼が俯いてしまう。


「目、逸らさないでよ。……わたしはちゃんと紫水を見たのに」


 わたしがそう言うと、紫水はおどおどした様子でどうにか顔を上げた。そしてゆっくり立ち上がり、


「一回だけ、ほんの少しだけ、きよのちゃんを抱き締めさせてって言ったら、怒る?」


 とわたしの顔色を窺って言った。


 わたしは呆れて、これ見よがしに大きなため息をつきながら立ち上がる。紫水の前で真っ直ぐ立って、少し腕を広げた。


「怒るわけない」

「し、失礼します」


 恐る恐る、壊れやすいものに触れるように、彼は腕をわたしの腰に回す。ゆっくりと身体の触れる面積が大きくなっていき、次第にわたしたちの体温は共有されていく。

 紫水は耳元で切羽詰まった声を出した。


「はあ、これ以上ないほど幸せだけど、緊張する……」


 しかしわたしはむしろ心拍が穏やかになっていくのを感じていた。

 この感覚、知ってる。記憶の奥底に眠った、古い古い感覚。


 ああ、お母さんに抱き締められたときの、あの感覚だ。


 懐かしい記憶に思い当たった途端、胸がきゅっと苦しくなった。紫水の腕に応えて、わたしも彼の腰に腕を回して力を込める。

 わたしがずっと感じていた“母のいない淋しさ”が、緩やかに形を変えて丸くなっていく。身体の隙間にその丸いものがぽこんとはまったように感ぜられ、一気に心に充足感が流れ込む。ぽちゃんと音がするほど満ちた充足感に任せ、紫水にありったけの想いを伝えた。


「紫水、ありがとう。わたしがずっと追い求めていたものを、紫水は惜しげもなくくれたんだよ。自分では気付いてないかもしれないけど。こんな世界に来て最悪だって思っていたのに、紫水のおかげで今は、淋しい、離れたくないって思ってる自分もいるの。本当にありがとう」


 紫水はそっとわたしの頭を撫で、何度も「うん」と頷いてくれた。


 彼の温もりから離れるのが怖く、この夜、わたしたちはずいぶん長い間抱き合っていた。

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