44. 忘れ物をしないように。
常連客にラーメンを出していると、ドアを開けて入ってきたお福と目が合った。
近寄って小声で言う。
「黒曜なら紫水の部屋にいるよ。上の階の奥ね」
「うん、分かった。お仕事頑張ってね」
テーブルの間を抜け、忍び足で階段を上がっていく。
ラーメンを作りながら、紫水は彼女のほうをちらと見た。五番テーブルの客に三杯のラーメンを持って行こうとカウンターのほうに戻ると、紫水に耳打ちされる。
「もう上がっていいよ。きよのちゃんは当事者なんだから、話を全部把握しているべきだと思う」
店内を見回し、ラーメンを待っている客は多くても十人くらいだと気付く。彼一人でも店は上手く回るだろう。
言葉に甘えてわたしも上の階へと向かった。
紫水の部屋の襖を軽くノックすると、お福が「はーい!」と元気な返事をした。
中では黒曜があぐらをかいていて、彼と向き合うようにしてお福が正座をしていた。二人の体格差は大きく、まるで親子のようだ。
ここ数日、二人は毎日のように『銘杏』に通っている。お福は水証会の儀式について伝えるために、黒曜は彼女の情報を聞いて当日の計画を立てるために。
二人は、お福が描いた儀式会場の図を指でなぞり、当日の動きを説明してくれる。時折同時に話してしまうので聞き取れない。
「呪文を唱える人は目を瞑っているから、この人の横をすり抜けて“隙間”に飛び込むのが最善だ。ただ、その後ろの『背殿』には護衛役が三人くらいいるらしい。だから……」
「『背殿』にはね、護衛の人がいるの。きっときよのちゃんを止めようと必死に追いかけてくると思うけど、安心してね。お福たちが……」
「でも大丈夫だ。俺や紫水、あとこの子供が身を挺して守る。お前には指一本触れさせねえからよ」
頷いたわたしの肩に、黒曜がそっと手を添える。
「そんな暗い声を出すなよ。俺がすぐに陽と月を繋ぐ道を作ってやるって言っただろ」
最近彼はそのことばかり話す。
するとお福は決まって、
「一人で行こうとしてるのずるい! あんた一人では行かせないからね、お福も行くんだからね!」
と怒る。
二人がわたしに会いたい一心であれこれと考えてくれているのが嬉しかった。そもそも、“二人がわたしのために”なんて自惚れたことを考えられるようになったのも、“月の側”で皆がわたしに優しくしてくれたからだ。わたしの中で空っぽだったボトルが、次第になにかで満たされたのを感じる。
帰ることが決まってから、わたしは自分の心の
少しでも心の欠片を“月の側”には残していきたくなかった。来たときとは違う。今度は唐突でなく、計画的に黒曜やお福、そして紫水と別れる。
“陽の側”に戻ってから、あれを忘れた、あれが心残りだとならないよう、後片付けをしなくてはならない。
まずわたしは、“月の側”という場所自体について考えを巡らせた。向こうよりだいぶ文明が遅れているものの、人の温かさや繋がりは強く、特に不自由を感じなかった。概ね満足で、暮らしていくには良い場所だと思った。
一方で、宗教色の強い面があり、特に宗派が分かれている点は困った。基本的に無宗教の家、地域で暮らしてきたわたしには、信仰心というものがいまいちピンと来ていない。同じ穂狐さまを信仰しているのに、なぜ傷つけ合うのか。結局そういう部分には靄がかかったままだ。
次に街の人々について考えた。店を手伝う中で、非常に多くの人と出会えた。特に河津、兎部たちは頻繁に店を訪れ、軽口を叩きつつも、時々わたしに重要なことを教えてくれた。思わず言ってしまった、という風を装ってはいるが、彼らはわたしに取捨選択した情報を与えていたことは確かだろう。秘密主義の紫水に代わって、わたしを導いてくれたことも多々あった。
最も思考に費やした時間が長かったのは、紫水、黒曜、お福のことだった。三人との別れを惜しむ気持ちは際立って強い。“月の側”に気持ちの忘れ物をするのであれば、恐らくこの三人への気持ちだと思う。
紫水はわたしに“月の側”のことを教えてくれた。初めて変化した姿を見たときは度肝を抜かれたけれど、常にわたしを守ってくれていたことは言うまでもない。唯一ともに“陽の側”を歩き、母との過去も判明した今、他の皆とは一線を画す繋がりを感じている。俗っぽい言葉にすれば、運命を感じている。
黒曜はぶっきらぼうで、客から勘違いをされることも多いが、不器用な優しさを持っている。地頭が良いらしく、いろいろなことによく気付く。お福との関わり方を見ている限り、子供とも上手く接することが出来るらしい。わたしに向けてくれた愛は真っ直ぐで、心には確かにその愛が刺さった。
お福はずいぶんと懐いてくれて、最近は可愛くて仕方がない。会ったばかりの頃は、少しでも大人に見られたくて無理をしていた部分があったように思うが、今はすっかり素直で年相応な少女だ。素直な言葉と表情で伝えられる感情は、ひどくわたしの心を揺さぶった。
そういえば紫水は……そう考え始めたとき、わたしはぶんぶんと首を横に振った。
また、紫水のことを繰り返し考えてしまった。
何度も紫水の名前が頭をぐるぐる回り、気付けばいつも紫水のことになっているのだ。
他のことも整理しなければと思いつつ、つい先日の水証会との戦いを思い出していた。
紫水に「防いだりはしないで」と言われ、無防備なまま手を引かれて走った記憶。恐怖心のせいもあるのか、ひどく鮮明に残っている。
あの一瞬の出来事を回顧するうち、わたしはひとつの、言い逃れ出来ない事実に気が付いた。
急がなきゃ。
その一心で、下の階にいる紫水のところへ駆けていった。
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