8. わたしを縛る縄、紫水が操るナイフ。
遠くに見えるヴィヴィットピンクを出来るだけ視界に入れないようにして、わたしは彼女の後をついていく。夕方らしい冷たい風がわたしの肌を撫でる。
「おてて繋ごう!」
彼女が元気に差し出した手を握った。柔らかくて小さな手は子供の手そのものだ。
二人になって心細さが薄らいだからか、少女はずいぶん元気になった。
「匂いを追いかける」というのを、わたしは比喩だと思っていた。しかし彼女は店を出た途端に鼻をひくつかせ、
「こっち、ママの匂いする。ご飯屋さんの前だと匂いが混ざっちゃってよくわかんないんだけど、たぶんこっち」
と大通りを歩いていく。本当に匂いを嗅いで辿っているらしい。
歩いているのは見覚えのある道。
今朝、紫水に指先で触れながら歩いた道を、今度は狐顔の少女と手を繋いで歩いている。
紫水と来た神社に着くと、彼女はわたしをぐいぐい引っ張った。
「お姉ちゃん、ここだよ! ママー!」
そう言って、紫水と紙を触った
今朝見た社は大きく、本殿というふうだったが、今入ったのは中にひと部屋しかない小さな社だった。
照明がなく、障子を透過する夕陽だけが頼りだ。正方形の部屋は畳張りで、ところどころささくれ立っている。障子や柱の木材もカビが生えて、朽ちかけている。本殿に比べるとかなり年季の入った建物らしい。
ふっと部屋が明るくなった。部屋の四隅に置かれた
「痛っ! なに⁉︎」
手首に痛みを感じた。暴れても、数人に取り押さえられて彼らのなすがままになってしまう。
抵抗虚しく、わたしは手足を縄で縛られて床に転がされた。畳の冷たさが、恐怖と相まって、身に刺さるようだ。
十人ほどがわたしを囲み、見下ろしている。逆光でよく見えないが、皆の頭に狐の耳らしき三角形がついていることはわかる。
特に痩せていて背の高いひとりがしゃがみ、わたしの腕を掴んだ。彼が持っているなにかが光っている、と思ったとき、腕に鋭い痛みが走る。貫かれる痛みの後、血管が開かれるような感覚がして、腕の一部がずんと重くなった。
注射だ。変なものを打たれた。
気付いてもわたしにできることはなにもなく、じくじくと痛む腕にただ意識を向ける。
熱い。痛い。痺れている。
身体の奥からなにかが這い出す感覚がして、それが皮膚まで到達したとき、わたしの腕はフラッシュを焚いたように発光した。
「光ったぞ! やはり災いをもたらす人間だ!」
あまりのまばゆさと、腕のジリジリと焦げるような熱さに、わたしはぎゅっと目を閉じる。
苦しい! 誰か助けて!
声にならない声が心に響く。
社の入り口のほうが騒がしい。ガラスを割り、木を折る音と、男たちの野太い声とが立て続けに聞こえた。
「だ、誰だ⁉︎ 勝手な立ち入りは許さん……ぐはぁ!」
「その長髪と瞳、お前は……おい! 待て!」
「待てって言われて待つほど、今の僕に余裕ないんだよ、ねっ」
「うっ! な、なんだ、足が動かん」
鼓膜を細かく震わせるような掠れた声。この声の主を、わたしは知っている。
彼の軽やかな足音が近付いて来るたびに安心感を覚える。
障子に人影が映ったかと思うと、障子が外れて倒れた。
白髪をお団子に結わう髪紐の一端を引っ張ると、するりと
「紫水! 助けて!」
「きよのちゃん。危ない目に遭わせてごめん。少しだけ待っていて。出来れば目を瞑っていて」
額に汗を浮かべた紫水は、普段よりもいくらか目が吊り上がっているような気がした。耳が尖っていて、鋭い牙が紅い唇から覗いているようにも見えた。
彼の言う通り目をぎゅっと瞑る。
紫水の「ふーっ」という息が聞こえると、また彼の駆ける音が聞こえた。応戦する数名の悲鳴や膝をつく音が続き、あっという間にしんとした。
そっと目を開けたわたしは、彼を見て鳥肌が立った。
小さなナイフを逆手に持って、その切っ先を一際体格の良い狐男の首に突きつけている。唾を飲んで喉が少し動いただけでも刃が皮膚を切り裂いてしまいそうだ。
ナイフを返せ、という声が聞こえる。紫水が持っているあれは、敵から奪ったものらしい。
「こいつが首領だろう? 早くきよのちゃんの縄を解け。さもなくばこいつの喉をかっ切るぞ」
「だ、だめだ! 皆で協力して人間の縄を……」
「俺のことはいい! 縄を解くなんて真似をするなよ、先にその人間を殺せ」
覚悟したように、ナイフを突きつけられた男は指示した。
わたしの縄を解くために近付いてきた狐たちは、一転してわたしを殺すために近付いてくる。皆の目が光っていて、その光が自分に射す希望の光ではないことに絶望する。
紫水の舌打ちが聞こえた。
「きよのちゃん、どうか動かないで!」
彼の声に呼応するように、わたしの身体が硬直する。その瞬間、ナイフが回転しながらわたしの手元に向かって弧を描き、縄をぷつりと切った。
こちらに駆けてきた紫水が、わたしの自由になった手を握って出口へ走り出した。走りながら、縄を切った後に床に突き刺さったナイフを引き抜く。
「追え! 矢を持った者は一斉に放て! 当たれば紫水でも人間でも構わん」
「僕はあんたたちの遅い矢に貫かれるほど衰えてないよ。ずいぶんと軽視されたものだ」
余裕のある口ぶり通り、彼は真っ直ぐ飛んできた矢をすべてナイフで弾いてしまう。矢尻を正確に弾く、キンッ、という音がする。
「人間を逃がすな!」
首領の声も虚しく、わたしたちは社の外に出た。
それからしばらく走って家の陰に隠れると、追いかけてくる足音の群れが止まった。あいつらはどこへ行った、というざわめきが聞こえる。わたしたちを見失ったようだ。
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