6. おばあさんの抹茶のお味は?
ラーメン屋には帰りたくないな、と考えていた。けれどわたしはこの世界のことを何も知らないし、スマホも使えない。とりあえず、変な方向に進むのはやめて、先ほど紫水と並んで歩いて来た道を引き返す。
紫水の瞳を思い出すと、昨夜獅子の化物を見たときと同じ気持ちになる。心が逆立って泡立つようなそんな気持ち。
鳥肌が立った腕をさすって歩くわたしに、道沿いの店から客引きの声が飛んでくる。
「寄ってらっしゃい! 羊族や犬族の子から、高貴な狐族の子までいるよー!」
「幻の酒、“
「春先はまだ肌寒いでしょう。温かい抹茶はいかがかね」
異様に明るい声には目もくれず早足で歩いていたが、抹茶を勧めるおばあさんの声に、思わず足を止める。
寒さと恐怖で固まった身体に、抹茶の温かさと苦さはきっと深く沁み入るだろう。そう考えたら抹茶がひどく恋しくなって、わたしはおばあさんに声を掛けた。
「抹茶をひとつ、お願いします」
「ありがとうねえ。はい、熱いから気を付けて」
「いただきます」
店前に置かれた、赤い布が掛かった椅子に座り、抹茶に息を吹きかける。深緑色の茶から立ち上る湯気は熱々で、茶葉の良い香りがする。
そういえば服のポケットに入った硬貨は使えるのだろうか。
ふと不安に思いながら、コップに口をつけようとした。
「飲んじゃあダメだ!」
突然電子音のような声がしたかと思うと、コップを持っていた右手を引っ張られ、わたしはコップを取り落とした。緑色が石畳の灰色に広がる。
わたしは彼に引っ張られて店を後にした。しばらく腕を掴まれたまま走る。
少々べとついた手を振り解こうとしても、思いのほか力が強く逃げられない。ラーメン屋のほうへ向かいながら、わたしは叫ぶ。
「蛙男! なんなの、急に」
「オレは
「どういうこと?」
「あのバアさんの周りに漂う“濁り”が見えなかったのか? バアさんは“濁り”から生み出されたバケモノだ。人間に変化できる高等なヤツだから、ニンゲンの嬢ちゃんが気付けなくてもフシギではないけどナ」
結局、ラーメン屋に戻ってきてしまった。休業中の札が掛かったドアを開けた河津は、紫水の姿を探したが、彼はどこにもいなかった。
「カンタンに言うと、シスイのいねぇところでなんか食ったり飲んだりはするなってコトだ。それどころかひとりで出掛けるのもやめたほうがいい。アイツが帰ってくるまで大人しくマツんだな」
彼はわたしをラーメン屋に引っ張り入れた。「紫水のやつ、嫁さんをひとり出歩かせるなんてなァ」とぼやきながらどこかへ行ってしまう。
河津が軽薄な話し方をするものだから、彼の言うことはどれも信用ならない。しかし言いつけを守らずに外に出る気にもならなくて、わたしは今朝目覚めた部屋へと階段を上がった。
わたしが一夜を明かした部屋には、変わらず布団が敷いてあった。することもなく寝転がる。
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