2. 獣同士の激闘はいかに。

 元々足がすくんでいたわたしは、地震の前兆を思わせる揺れに、なおさら足に力が入らなくなる。けれども蛙や狐たちは他のなにかに気を取られている。


 逃げるなら今だ。

 そう思って、目の前のカウンターに手を置いて、手で身体を支えるように立ち上がった。


 わたしがいる場所の全貌が見えたとき、わたしは息を呑んだ。

 木製のカウンターには、割り箸が挿さった箸立てや、“コショウ”、“ラー油”とラベリングされた銀色の調味料入れが並ぶ。真っ白な壁には、“醤油ラーメン”、“チャーシューめん”と手書きされた紙が貼ってある。


 先ほど入ってきた兎……兎部さんとか呼ばれていたか。彼のもふもふした手や脚は、血に濡れていた。腹のあたりも怪我しているのか、着ているスーツに赤黒い跡が見えた。

 その痛々しい姿よりも衝撃的だったのは、兎部の傷を舐める蛙男の姿だった。長い舌でべろんと舐めると、みるみるうちに傷が塞がっていく。痛みに歪めていた表情が、和らいでいく。


 ぽかんと突っ立っているわたしを、蛙男が一瞥いちべつして、


「オィ、窓の外を見ていろよ。アレを見たら、混乱しすぎて、一周まわって状況を理解出来るカモしれないぜ」


 と言い放った。面白がるような表情に、嫌な予感がする。


 窓の外は異様に暗い。学校から帰るのはいつも夜だが、そういう暗さではない。重苦しいなにかが上空で蓋をしているような、圧迫される暗さだ。

 外へ出る恐怖心はあった。けれどもこの怪物たちの空間にいるよりはましだと思った。


 カウンターに手をついて、出来るだけ最短距離で扉を目指す。ノブに手が届きそうになったとき、足をなにかに掴まれてわたしはすっ転んだ。扉に思いきりぶつけた額が痛い。

 振り向くと、蛙男の長い舌がわたしの足に巻き付いていた。ぬるりとした感触に鳥肌が立つ。


 蛙男はやれやれと言うように肩をすくめた。


「命知らずな嬢ちゃんだなァ。大人しく床に這いつくばって、よおく見ておけよ」

「離して! なんなの、ここ。わたしは早く帰りたいの」

「ほうら、来たぞ。マバタキは厳禁だ」


 聞いてるの、と問い詰めようとした途端、身体中に鳥肌が立って声が出なくなった。


 二つの足音が、近付いて、くる。


 扉のガラスから目が離せない。見たいような見てはいけないような、そんな気持ち。


 わたしが目にしたのは、恐ろしい四足歩行の怪物二体の姿だった。

 ひとつは、ヴィヴィットピンクのたてがみをなびかせる、ライオンやシーサーに似た黒い怪物。ぎょろりとした瞳もヴィヴィットピンクで、口からは鋭い牙が覗いている。こちらが兎部の言う“獅子”だろう。

 もうひとつは、真っ白な柔らかい毛に覆われた怪物。黄金色の尖った耳と、吊り上がった山吹色の瞳には、なんだか見覚えがある。

 どちらも建物と同じくらい大きい。通り過ぎたとき、わたしがいる建物のガラスすべてが揺れた。あまりの風圧で、割れるかと思ったほどだ。


 獅子が疲れ果てているのがわかる。舌を出し、必死に駆けている。

 彼のスピードが遅くなったのを、白い怪物は見逃さない。一気に追い上げると、獅子の首もとに噛み付いた。血しぶきが上がり、白い毛を、赤く濡らす。

 獅子の、耳をつんざくような悲鳴がしばし続き、ぱたりと止んだ。首を噛まれた獅子がこうべを垂れている。


「すんげえなあ。シスイさんはやっぱり強いや」

「まあ、ここで終わってくれればセワねえんだけどな。尻ヌグイするこっちの身にもなって欲しいぜ」


 感激する兎部に、呆れた様子の蛙男が言う。


 わたしは、白い怪物は“シスイ”という名前なのか、とやけに冷静な頭で考えていた。

 首筋から血を流す獅子と、口元が血濡れたシスイ。相当グロテスクでショッキングな光景のはずなのに、直視してしまう。先ほど蛙男に言われた通り、一周まわって状況がわかってきたのかもしれない。

 確かに、なにもわからないことがわかってきている。


 咥えた獅子のむくろを道端に放ったシスイは、重心を後ろにして、駆け出す準備姿勢を取った。牙を見せ、低く唸っている。

 前脚が地面から離れ、ついに駆けるかというところで、パアン! となにかが弾ける音がした。シスイが気絶したようにどさりと倒れた。

 音のほうを見ると、シスイに続いて外へ出た蛙男が、銃身の長い猟銃のようなものを構えている。シスイに動きがないことを確認すると、銃を下ろす。


 道に横たわる白い怪物は、みるみる小さくなっていった。ぱっと光の粒が弾けて現れた“人”を見て、わたしは絶句する。


 倒れていた怪物は、先ほどわたしに求婚した狐男に変貌を遂げたのであった。

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