30. 理想の離別。
藍色の浴衣と白色の帯の組み合わせがお気に入りなのだが、今日は黒色の浴衣に光沢感のある灰色の帯を合わせた。どうして色彩を抑えたかというと、内側に向いた気持ちのまま明るい色の衣服を身に纏うことに抵抗があったからだ。
今日に限って濁りから化物が生まれると思っているわけでもない。皆が、“陽の側”に戻れないわたしのことを嘲笑っているわけでもない。
しかし、不安で仕方がない。ほんの僅かな希望や期待さえ残っていない世界を見て回るのは。
紫水はやはり心の機微に聡く、袖が触れ合う程度の距離で隣を歩いてくれている。身体が触れるわけでも離れているわけでもないこの距離がちょうどいい。
わたしの気分に関わらず、空はヴィヴィットピンクが支配している。
化物が現れたときの光景——気味の悪い雨のような液体が地面に零れ、そこからむくむくと生き物が生まれる光景。思い出すとぞくりとする。
「きよのちゃん、大丈夫?」
時折気遣う言葉をくれる彼に「大丈夫」と答え、空を見上げる。彼もつられて視線を上空に移した。
「わたしが初めて“月の側”で外出したとき、空、こんなに濁りはなかった気がするんだけど」
「そうだね。遠くに見える程度だった」
「なのに今は、わたしの上にまで濁りが広がってる。わたしが紫水と婚姻するまで濁りはどんどん拡大して、それで……それで?」
「実際濁りで満ちたことはないから憶測の域を出ないけど、“月の側”が崩壊するって言われてる」
「そうなったら、紫水たちは死んじゃう?」
彼は頷いた。でもきよのちゃんは“月の側”を救うために生まれてきたわけじゃないし、“月の側”で生きてきた僕らがどうにかするべきなんだよ、と続ける。
今はこちら側の皆とともに暮らしているのだから、あっさりと皆を見捨てることは出来ない。かと言って一生こちらで暮らすかと問われれば悩んでしまう。
中途半端な正義感しか持ち合わせない自分に嫌気が差す。
「“月の側”が崩壊したら、“陽の側”はどうなるの? なんの影響もないとは思えない」
「表裏一体だからバランスが悪くなるのは確かだ。最悪、“陽の側”も同時に崩壊する。でもあくまで推測だよ」
気に病む必要はないと言わんばかりに優しい言葉をくれる彼に苦笑を返す。
わたしが背負ったもの……そのうちには使命も罪悪も含まれるわけだが、その全体像が見えてくるにつれて、どうするべきかも見えてきた気がする。
“陽の側”に帰ってもバランスが崩れてしまい、“月の側”にい続けても紫水と婚姻関係を結ばない限り世界は危険に晒される。
それならば、結婚するしかないのではないか。この頃そのことで頭がいっぱいだった。
特に言葉を交わすこともなく縞井の家に着いた。化物と戦ったあの道は、今や何事もなかったように静かで、ただひとつ道のひび割れだけが唯一の名残だった。
高い塀から顔を覗かせる煉瓦の建物に続く、広い庭。庭に通ずる門の脇にあるベルを鳴らすと、縞井がわたしたちを迎え入れてくれた。
「無理言って二人で来ていただいて、申し訳ないわね」
彼女は少しばかり痩せた気がする。病に臥せっていた夫よりも、今の彼女のほうが具合が悪く見えるほどだ。けれども表情は明るく、変わらぬ上品な所作と笑顔でわたしたちを案内してくれた。
あの日、二人でラーメンを食べていた部屋へと通された。窓際のベッドはそのまま、ただ寝そべる彼の姿はない。
「どうぞお掛けになって」
「ありがとうございます。旦那さまのこと、お聞きしました」
縞井は弔いの言葉を述べる紫水を手で制止して、
「そういう言葉はもう聞き飽きるほどいただいたの。せっかく若い二人に来てもらったのだから、わたしは楽しい話を聞きたいのよ」
と笑う。そしてコーヒー豆から抽出したコーヒーを出してくれた。ふくよかな香りがぶわりと広がって、とても美味しそうだ。
「確かにこれからもずっと彼と生活していけたら幸せだったと思うわ。でもいつかは終わりが来てしまう。それが世界の原理でしょう? なにかが始まったらなにかが終わらないといけない。だから仕方のないことだと受け入れているの」
彼女もコーヒーカップを手に、わたしと紫水に向き合うようにして座った。
「それにね、わたしか彼かどちらかは、僅かな時間かもしれないけれど、孤独に暮らす日々が訪れるでしょう。それならわたしが孤独のくじを引き当てて良かったの。彼はひとりで生きていける人じゃなかったから。ううん、彼にはわたしのいない生活は耐えられなかったから、と言ったほうが正しいかしら」
当然のように話す縞井に驚いた。きっと生前からそういう言葉を交わしていて、彼らにとって互いの存在は自分の片割れのようなものなのだろう。
彼女としては理想の離別だったことはこれ以上言うまでもない。
さらに縞井は紫水に向き直って、深々と頭を下げる。
「紫水さんのラーメンが、旦那が最後に口にしたものになった。あの日から容体が急変して、水を飲むくらいしか出来ないまま亡くなってしまったから……彼の願いを叶えてくれてありがとうございました」
「いえ、そのような思い出の食事に僕のラーメンを選んでくださって、こちらこそありがとうございます。僕はずっと、お客さまの記憶に寄り添えるラーメンを目指して来ましたので」
「何を言っているんですか。限られたものばかり食べてきたわたしたちにラーメンを教えてくださった紫水さんは、もうとっくに皆の記憶の中にいますよ」
「僕もとある女性からラーメンを教えてもらったんです。彼女もきっと喜ぶと思います」
彼にラーメンを教えた女性がいたとは、初耳だった。確かに紫水がどのようにカジノのディーラーからラーメン店の店主になったのか、知らなかった。
あとで聞いてみよう、と思った。
わたしたちがコーヒーを飲み終えたところで、縞井が立ち上がる。
「お二人にお見せしたいものがあるのです。ご案内しますね」
彼女に続いて立ち上がったわたしたちは、ハイビスカス柄の絨毯を歩いて、上の階の一室へと入った。
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