38. 好意の行き着く先。
早朝の澄んだ空気が、歪んだ混ざりものの空気へと変わっていく。公園に立つ時計の針は八時半を示している。
神社へ向かう間、紫水は母との出会いから語ってくれた。
「当時カジノ店を営んでいたんだけど、カジノの台に突然女性が落ちてきたんだ。それから彼女は散々騒いで、僕やお客さんがすぐには帰れないって説明したら一気に冷静になった。“月の側”についても理解が早かったよ」
すぐに『どうしたら“陽の側”に帰れるか』を考え始めた母は、まず情報を集めるためカジノで働き始めたという。思考回路がわたしと同じだ。しかし彼女のほうが考えに無駄がなく、わたしよりも早く行動に移している。
「夜中までディーラーとして働く僕への労いで、あすみちゃんはよく夕飯を作ってくれた。肉じゃがとかほうとうとか、僕たちにとっては新鮮なものばかりだったよ。その中で僕はラーメンを気に入って、店まで開くようになっちゃうんだけど」
「確かにお母さん、料理が上手なんだよね。上手っていうか、なんだろう。独創的なものを感覚だけでさらりと作っちゃう、芸術家みたいな料理っていうのかな」
「言いたいこと、すごく分かるよ! “月の側”にはない食材でも、他の食材で代用しちゃうんだよね」
それからも母の料理について大いに盛り上がった。
違う世界で生まれた、年齢も全然違う二人が、三國あすみ改め松ヶ谷あすみの料理を通じて繋がっている。娘としてなんだか不思議な気持ちだった。
紫水は母の容姿についてもこう言った。
「彼女の目元のほくろ、素敵だよね。あのほくろには人を惹きつける力があった。ショートヘアが彼女の強い部分を表していてとても似合ってた」
三歳までしか母と会っていないのに、彼女の泣きぼくろははっきり覚えている。母は本当に美人だった。
言いたいことはすべて分かる。ただそれにしても彼がこんな風に女性を褒めるのは珍しい。
「紫水、お母さんのこと、好きだったの?」
「へ⁉︎ いや、そういうわけじゃ……あ、人としては好きだったよ、当然!」
「そういう意味じゃない」
冷たい声で言い放つわたしを、怯えたような表情で見る。紫水は「うー」と幼稚な声を上げ、天を仰ぎ、頭を抱える。
声を止めて顔を一度パンと叩くと、
「僕、あすみちゃんとずっと暮らしていたいと思ってた!」
ときっぱり言った。
「それは、浄化のためにお母さんと結婚しなきゃいけなかったから?」
「違う。むしろ彼女が“月の側”にいることが異常だったから、早く帰したほうが良かった。ずっと暮らしたいっていうのはただの僕の好意だよ」
自分の母親に好意を寄せていたことを肯定されても、嫌悪感は抱かなかった。なぜなら彼は自らの好意を押さえ、母をこちらの側に戻してくれたからだった。それも、大きな代償を払って。
彼は好意を抱いたとき、相手を引き止めるとか手に入れるとかではなく、相手が望んでいることを叶えようとする。自分が、ではなく、相手が最も幸せになる選択をしてくれる。そう容易く出来ることではないと思う。
「紫水のそういうところ、好きだよ」
「へ⁉︎」
「わたしたち、生まれたときから……業を背負ってる? っぽいじゃない? だからこそ、紫水の生き方を見ているとわたしもちゃんとしなきゃと思って。与えられたものはちゃんと使わないとなって思い直したの」
紫水は続く言葉を待っている様子だった。しかしわたしはあえて話題を逸らす。
「もう神社だね。あっという間だった」
「えっ、話の続きは?」
「今は言わない。だって紫水、わたしのこと信じてなかったんでしょ?」
首を傾げる彼をよそに、こちらに来たとき着地したあたりに歩みを進める。
周りを見渡して、見慣れた景色を目に焼き付ける。案外涙は出なかった。
「九時に帰る約束、破ると思ってたんでしょ?」
「そういうわけじゃ」
「でも不安になってこっちに来たんでしょ。そんなに無責任だと思われてたなんてなー、ショックだなー」
狼狽える紫水を見て思わず吹き出す。
わたしの気持ちが、とっくに次のフェーズへと移っていた。“陽の側”で過ごしてきたこれまでの二十年と、“月の側”で過ごすこれからの残りの人生。きっとわたしの人生は元々オムニバス形式なのだ。
そもそもこれまでの二十年は、紫水の代償の上に成り立つ日々だった。これ以上は払いきれないほどの延長料金が掛かると考えれば、第二フェーズへの移行も甘んじて受け入れるほかない。
父と祖母と、かおりちゃんと、温かい地域の皆に囲まれて過ごせたことは、本当に幸運だった。皆から受け取った愛は、いつまでもわたしの中で淡く輝くだろう。
神社の日時計は、もうすぐ九時になることを知らせている。
ついにタイムリミットを迎えた。
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