42. 小さな狐の訪問。

「お、お福ちゃんは……っ!」


 活発に話すお福の顔を思い浮かべながら、わたしは思わず身を乗り出す。黒曜は優しい手つきでわたしの頭をぽんと撫でた。


「話を最後まで聞け。お福はなにかを感じて社から出ていたらしい。さっき俺がいた部屋の窓を叩きに来てな、『ある程度事態が収束したら銘杏に移り住むからよろしくね、って紫水くんやきよのちゃんに伝えて』って」

「よ、良かった……」


 へなへなと座り込み、ほっと息をつく。


 ここに住むことを紫水だけでなくわたしにまで伝えようとするとは。きっと彼女は間違えた認識をしている。『銘杏』の家主は紫水ときよのなのだ、と。


「嫌な予感を感じ取れるなんて、お福ちゃんはやっぱり聡い子だね」

「どうだろうな。狐の勘かもしれねえぞ?」


 ふと、水証会の人々が大勢亡くなったというのに胸を撫で下ろした自分に気付いた。いつか紫水たちとも和解して、共生出来たら良いのに、などとぼんやり思っていたのに。


 “月の側”に来て、自分が冷酷な思考を行うようになった気がする。

 紫水は優しい笑みを浮かべ、常にわたしたちを思い遣ってくれる。だからこそ忘れてしまうのだ。彼が冷酷で現実的な一面を持っていることを。業を背負って生まれ、辛い思いをしてきた紫水は、自己防衛のためにそういう思考を持ち合わせるようになったのかもしれない。

 時折恐ろしさを感じるものの、それは紫水を嫌う理由とまではならなかった。彼の冷たさは仲間への温かさのためだからだ。


 考え込むわたしを、黒曜はじっと見ていた。そしてふうと息を吐きながら、


「まああれだ、水証会の人らのことはお前のせいじゃない。自分を責めるなよ」


 と慰めの言葉をくれた。


「……ん、ありがとう」


 ぎこちない感謝を返しつつ、黒曜は紫水よりも素直で温和な面があるなあと考えていた。


 翌朝、『銘杏』の扉がベルの音を立てて開かれた。客かと思い、


「申し訳ございません、本日は店主不在のため……」


 と休みの旨を伝えようと振り返ると、そこにはにこにこして立つ紫水の姿。わたしと目が合った途端に笑顔を深め、手を小さく振る。


「紫水! 怪我の具合は? 平気?」

「うん。河津さんも言っていたでしょう? ちょっと意識失っちゃってただけなんだ」

「河津さん、『意味ネエからミマイとか来るなよ』って言ってたけど、本当だったんだね。元気そうで安心したよ。何人もラーメン食べに来ちゃって大変だったんだから」

「はは、ごめん。どこも痛くないってわけではないけど、今すぐにでもラーメンを作れるよ」


 わたしたちが話す声を聞いて、黒曜が上の階から起きてきた。彼の希望もあり、退院したばかりの紫水にラーメンを作ってもらうことになった。


「わたし、味噌ラーメン!」

「俺は醤油」


 紫水は自分のぶんとして醤油ラーメンを作る。

 カウンターに三つどんぶりが並び、店中に良い香りが広がる。手を合わせて「いただきます」と言いかけたとき、店のベルが鳴ってわたしたちの手を止めた。


 また客かと思って振り返ったが、今度は小さな狐がちょこんと四本足で立っていた。頭でドアを押し、どうにか開けたらしい。

 この小さな狐はもしかして。そう思っていると、黒曜が案の定、その狐に、


「お福。どうしたんだ、変化した姿で」


 と声を掛けた。


 初めて目にする、彼女が変化した姿は、本当に愛らしかった。元々顔は狐そのものだが、真っ黒な瞳はさらに潤み、三角形の耳はさらにぴんと真上に伸びている。丸い前脚は、歩くたびに爪のかちんかちんという控えめな音が鳴る。


 わたしを視認すると、狐は犬のようにすばしっこく走ってきた。膝目がけて跳び、膝の上に乗ろうとするが、わたしの浴衣に足を取られて二人で慌てた。どうにか落ちずに耐え、ちょこんと膝の上に座ってしまう。

 毛並みを整えるように背中を撫でると、お福は気持ち良さそうな声で鳴いた。わざわざ変化したまま『銘杏』に来た理由も言わないまま、溶けたように膝でくつろいでいる。


「お福、ラーメンいる?」


 紫水が尋ねる。お福は頷くと、「味噌」と小さな声で言った。

 声を出したのをきっかけに、彼女は話し始めた。


「ねえ、きよのちゃんは、“陽の側”に帰れるって言ったら帰っちゃうんだよね?」

「まあ……うん。向こうにわたしの家族がいるし、わたしは向こうで生まれ育ったから」

「じゃあもうなんにも言わない」


 紫水はラーメンの湯切りをしながら、口を挟む。


「そんな意地悪言わないで、話してあげなよ。きよのちゃんに言うべきことがあるんでしょう?」


 彼のほうをちらりと見たお福は、目を細め、口を尖らせる。背中を撫でたまま次の言葉を待っていると渋々といった様子で、


「“陽の側”に二人だけ行けるらしいの。この間と違って、もう“月の側”には帰って来られないけど」


 と教えてくれた。言い終えると、「くぅーん」と悲しげな鳴き声を上げ、わたしの膝に顔をうずめた。


「きよのが帰ったら、陽と月の均衡が保てなくなるんじゃねえのか?」

「……水証会のね、浄化力の強い人がね、何人か死んじゃったの。だから今は“月の側”の浄化力が強くなりすぎちゃってるんだって。大人たちが集まって話してるの聞いちゃった」

「むしろきよのは向こうに帰ったほうが世界のためってことか?」


 お福は頷く。


「水証会の残った人の中で、二人選んで向こうに飛ばそうとしてる。二つの世界が接してるところをちょっと広げて、その隙間に滑り込むんだって。めんどくさい儀式があるはずだから、その間にきよのちゃんが隙間に入っちゃえばいい」


 ある程度のリスクはありそうだが、これまでの考えがひっくり返るような話だった。世界を守るために“月の側”で暮らそうとしていたというのに、むしろ帰ったほうが世界を守ることに繋がるとは。浄化力を持つ人物の相次ぐ死は想定外だった。


 帰れる! またばあばやお父さんと暮らせる!


 浮かれ始めた気持ちは、お福の一言でぐらりと揺らいで地に落ちた。


「お福、きよのちゃんと離れたくないなあ……」


 彼女の泣きそうな声は、わたしだけでなく、紫水や黒曜の心も揺さぶった。

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