元カノの姉

「……き、気まずい」


 誰にともなく俺はそんな呟きを漏らしていた。


 ここ数日。

 明日香との関係は、なんというか、ぎこちなかった。


 なにかと明日香の方から、俺に接触を図ってくれるのだけど、今ひとつ会話は盛り上がらないし、微妙な空気が流れてしまう。


 付き合っている頃にはなかった悩みだ。

 特に、明日香が俺に対して妙な気を遣ってくるため、違和感が半端ではなかった。


 一からやり直すどころでは無い。

 これではマイナスからのスタートだ。


 そもそも、俺は明日香とどうなりたいのだろう。


 完全に、縁を切ってしまいたいのか? 


 いや、多分、それは違うと思う。

 縁を切ってしまいたいような相手なら、二年も付き合っていない。


 明日香から『別れる』なんて言葉が飛び出た時点で、即座に別れていただろう。


 じゃあ、復縁したいのか? 


 それも、どうなのだろう。ホント……分かんないな。


「あ、やっほー、ヒロくん。奇遇じゃん? 学校帰り?」

「……知奈美ちなみさん」


 俺が複雑な気持ちを携えながら、トボトボと歩いている時だった。


 前方から声をかけられる。


 下を向いていた視線を上げると、そこには明日香によく似た女性がいた。

 今年、大学一年生になった明日香の姉──能美のうみ知奈美。


 栗色の髪を、肩下のあたりで切り揃えている。


 彼女はポンと俺の右肩に手を置くと。


「聞いたよー。明日香と別れたんでしょ?」

「あ、ああ、まぁ、はい」


 少し遠慮がちに頷く俺。


「どーして別れたの? 明日香、あんま自分から言いたくなさそうだから聞けなくてさ」

「それを俺には聞くんですか……」

「あ、言いたくないなら大丈夫だよ」

「いや、というか知奈美さんの聞きたい話じゃ──」


 そこまで言いかけて、俺は声を途切らせた。


 なんで俺が、知奈美さんの聞きたい話じゃないって決めつけてるんだ。


 高瀬にも、思い込みが激しいことを指摘されたばかり。悪い癖だな……。


「ん? どーかした?」

「あ、いや、じゃあそこの公園で少し話しますか?」

「おっけー」


 俺は近くの公園を指差す。

 滑り台とベンチくらいしかない小さい公園。


 特に利用者もいないし、ベンチを使っても問題ないだろう。




「──って感じです。それで我慢の限界が来てしまって」


 ベンチに移動してから、別れるに至ったまでの経緯を包み隠さずに打ち明ける。


 知奈美さんは話を聞き終えると、ポリポリとこめかみのあたりを指で掻きながら苦い表情を浮かべた。


「それは……わたしの妹ながら、最低だね」

「そうっすよね」


 常に明るい知奈美さんだけれど、今ばかりは声色が落ち着いていた。


「でもヒロくん、よく二年も我慢してたね。わたしだったら、速攻で別れちゃう気がするんだけど」

「……好きだったからじゃないですかね。別れるって脅されるのは嫌だったけど、明日香に結構ベタ惚れだったので」

「にゃるほど。じゃ、もう好きじゃなくなったんだ?」

「どう、なんでしょう。もう、自分の気持ちが分かんなくて」


 心の底からの本音だった。


「明日香とヨリを戻したいって気持ちもあるってこと?」

「……わかんないです。ただ、また一からやり直してみるのもアリなのかなとか。……あ、友達からアドバイスもらったんですけど」

「うーん……。こんなこと言ったら明日香に恨まれそうだけど、凄い個人的なことを言うね?」

「あ、はい」

「ヒロくんはさ、物凄く優しいんだよ。というか、甘いのかな。今回の件でいえば、我慢の限界が来て爆発しちゃったけど、一回胸の内を明かしたことで実はすでに溜飲を下げてるの。だから、明日香が反省してる様子を見たりすると、気持ちが迷子になっちゃう。自分ばっかり怒ってるのは申し訳なくなっちゃうんじゃないかな。許してあげたい気持ちと、でも、これまで我慢してきた気持ちとがごっちゃになって……それで、自分の気持ちがよく分からなくなってるんだよ」


 ……それは、あるかもしれない。


 知奈美さんからの鋭い指摘に、俺は息を呑み込む。


「あ、ごめんね、こんなこと言われても困るよね」

「いえ、そんな」

「ヒロくん、明日香以外の子と付き合ったことある?」

「な、ないですよ。なんですか、いきなり」

「いや、他の子と付き合ってみたらいいんじゃないかなって。あんまり明日香に縛られすぎちゃダメだよ」

「そう言われても……。大体、新しくカノジョなんて作れる気が」


 恋人探しに躍起になれる行動力は、今のところ沸きそうにない。


「なら、わたしが付き合ってあげよっか? 年上の包容力を見せてあげよう!」

「いいんですか? 本気にしますよ?」

「いーよ。ただし、わたしにキスできたらね」

「……き、キスって」

「あっ、ごめんね。チキンなヒロくんには難しいよね」

「……っ。俺、売られた喧嘩は買うタイプです」

「お、おう……。意外と肉食系だ」

「後悔しても遅いですからね」


 俺は知奈美さんの肩にそっと手を置く。


 もちろん、本気でするつもりはない。知奈美さんに冗談を言われることは慣れている。


 だからお互いに、分かった上でのノリだ。


「ふふっ、本当にできるのかな?」

「知奈美さんこそ、今なら許してあげますよ?」


 知奈美さんはふわりと微笑むと、まぶたをそっと落とす。


 俺がこのまま顔を近づければ、キスできるシチュエーション。

 けれど、当然ながらそんなことはしない。結局、また知奈美さんの掌の上か。


 ここでキスできれば一泡吹かせることができそうだが、それは今後の関係に支障をきたしかねない。


 と、俺が知奈美さんの肩から手を離そうとしたときだった。



 ──バタン



 バッグが地面を叩く音がした。


 知奈美さんはパチリと目を開け、俺は即座に振り返る。


「え……う、嘘。……な、なに、これ」


 するとそこには、表情を歪め、挙動不審に目を泳がせる明日香の姿があった。


 彼女は俺と目が合うと、目の下を手の甲でぬぐい、逃げるようにこの場から去っていく。


 途端、静寂がこの場を深く満たしていく。


 ベンチに座りながら、石像さながらに硬直する俺と知奈美さん。


 明日香の姿がすっかり見えなくなったところで、俺たちはほぼ同時に動き出すと。


「……ど、どど、どうしようヒロくん! わ、わたし、妹の彼氏、寝取ったみたいになってなかった⁉︎」

「な、なってました! いや、もう別れたのでアレですけど!」


 俺と明日香は恋人関係にはない。

 もし、知奈美さんと何かあったとしても咎められる謂れはないが。


 これは結構、面倒な方向にこじれたのではないだろうか……。


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