十一時にまでに来い

『今すぐ来ないと別れるから』

『意味わかんないだけど。脅してるつもり?』

『三十分あれば来れるでしょ』

『は? そんなの無理。化粧とか、男と違ってやることいっぱいあるのよ。だいたい、今日のデートはなしって言ったでしょ』

『十一時までにこなかったら、別れるから』

『だからそんなの無理』


 俺はスマホをポケットにしまうと、壁に体重を預ける。


 ブルブルとスマホの振動が太ももに伝わる。

 明日香からチャットが飛んできているのだろう。


 だが、チャットの内容を確認する気はない。

 十一時になるまでにこの場所に現れなかったら、俺はこのまま帰宅するし明日香と別れる。


 我ながら突発的な思考回路だけれど、もう、自分で自分が分からないんだ。


 これ以上、明日香にとって都合のいい彼氏でいる価値が分からない。


 そもそも、俺は明日香のことが好きなのか、分からない──。


 義務感で付き合っているような感覚。


 取り敢えず、十一時まで待とう。




 十時五九分になった。


 残り六十秒を切る。

 さすがに三十分のタイムリミットは制限が厳しかったか? 


 いや、なに甘いことを言ってるんだ。

 明日香はいつだって俺に難題を押し付けてきた。


 このくらい達成できないようなら、スッパリと関係を切った方が良い。


「……はぁ、はぁ、はぁっ」


 残り二十秒を切ったあたりだった。


 荒い息遣いがやってきた。

 顔を上げると、肩で呼吸をしている明日香と目が合う。


 化粧は間に合わなかったのか、マスクと帽子で顔を隠している。

 栗色の髪は寝癖を携えたままで、ところどころ翻っていた。


 明日香はキッと猫のような鋭い目で俺を睨みつけると。


「ねぇ、一体どういうつもり! あたし、今日はデートなしって言ったでしょ!」

「どうもなにも、こっちはライブを諦めてまで時間を割いてるんだ。それなのに、そっちがドタキャンなんて許せるかよ」

「だ、だからって別れるとか……。てか、マジギリギリなんだけど。もし、十一時過ぎてたらどうしたわけ? チャットしても電話しても無視してきたけどさ‼︎」

「そのまま帰る予定だった。明日香との交際もそのタイミングで終わりになってたな」

「な、なによそれ。ヒロトは……あたしのこと、好きなんでしょ?」

「どう、なんだろう。……俺、明日香のこと好きなのかな」

「え?」

「取り敢えず、ここだと周囲の迷惑になる。場所を変えよう」


 俺はそう提案すると、近くのファミレスに向けて歩を進めた。



 ファミレスに着くまで、明日香は動揺を覚えているみたいだった。

 チラチラと俺のことを伺い見て、子猫みたいに挙動不審になっている。


 俺は特に気に留めず、彼女より一歩先を進んでいく。

 イタリアンを取り扱うファミレスに入ると、四人用の角席に案内された。


 俺たちは向かい合うように腰を下ろす。


 明日香はパタパタと手をうちわ代わりにして仰ぎながら。


「あーもう最悪。スッピンで外出させたんだから、ヒロトがここは奢ってよね。朝からなにも食べてないし、けっこー食べちゃおっかなぁ」

「いいよ。どうせ今日で最後だし」

「な、なによ、最後って……」

「別れるからだけど」

「……っ。なんでよ! あたし、ちゃんと約束守ったでしょ! 十一時になる前に来たじゃない!」


 バンッと力強くテーブルを叩き、明日香は鬼気迫る様子で顔を近づけてくる。


 俺は淡白な口調で。


「さっきも言ったけど、俺、もう明日香のことが好きなのか分かんない。交際を続ける必要性が分からなくなったんだ」

「ヒロトから告白してきたんでしょ……。それなのに、そんなの」

「ああ、多分、それが引け目になってたんだと思う。俺から付き合うことをお願いした。だから、明日香のわがままを聞くのも彼氏として当然の責務だと思ってたんだ。でも、明日香はドンドン増長していって、今となっては俺のことを都合よく扱ってる」

「……そ、それは」

「それにさ、普段から明日香が言ってることだろ。簡単に『別れる』なんて言えちゃう時点で、俺たちの関係はとっくに破綻してんじゃないかな」


 少なくとも、俺は好きな人に対して『別れる』なんて脅しは使えない。


 だって好きだからだ。

 その発言をキッカケに別れたくなんかない。


 ただ、明日香はたびたび口癖のようにその文言を使ってきた。


 明日香の中で俺はもう、『好きな人』ではなくなっていたのではないだろうか。


 そして俺も、明日香のことが、『好きな人』ではなくなっている。


 このまま交際を続けていくのは不毛だ。


「……っ。じゃあ別れればいいでしょ! あとから取り消してくれってお願いされても無駄だからね!」

「ああ。千円札は置いてくからこれで飯は済ませてくれ。じゃあ、俺はこれで」


 俺が席を立ち上がる。

 と、すかさず右手首を掴まれた。


「え、えっと……嘘、よね? 冗談でしょう?」

「離して」

「お、落ち着いてよ。なに意固地になってるの?」

「意固地になんかなってない。ようやく目が覚めただけだよ」

「ら、ライブの件で怒ってるの?」

「それもあるけど、積み重ねだと思う。それが今日で臨界点を超えて耐えられなくなった」

「……っ。ね、ねぇ、ほんとに別れるの? あたしたち」

「初めからそう言ってるよ。今さっき、明日香自身の口からも言ってたじゃないか」


 寝ぼけているのだろうか。

 支離滅裂にもほどがあるな。


 俺は明日香の手を振り解くと、足早にファミレスを後にした。


 明日香とは目を合わせなかった。

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