しつこい

 明日香と別れた後、俺は真っ直ぐに家に帰った。


 スマホを確認すると、明日香から大量のチャットと着信がかかっていた。


 全部、無視することにした。

 我慢の限界を迎え、吹っ切れてしまったらしい。


 これから先、明日香に束縛されることがないと考えると、少し晴れ晴れとした気分だ。退職届を出した直後の精神状態は、こんな感じなのだろうか。


 ベッドの上に寝転がり、特に意味もなく白い天井を見上げる。


「ライブ、いけるな……」


 開演時間は十六時からだし、今から準備すれば十分に間に合う。


 しかし、その気力が不思議と湧かなかった。

 あれだけ行きたかったライブなんだけどな……。


 どうしてか気分が乗らない。現地に行ったところで、盛り上がれる気がしなかった。


「まぁいいか。元々、昨日の時点で諦めてたわけだしな」


 取り敢えず、少し休もう。



 ★



 まぶたを開けると、幾分か視界がぼやけていた。


 真っ白な天井。

 窓からは夕陽が差し込んでいる。


 結構、長い時間寝てたみたいだな。


「お、おはよ。いつまで寝てるのよ」

「おは──……は?」


 ぼんやりとした思考が一瞬でクリアになる。


 俺は手近の布団を手繰り寄せると、顔を青く染め上げた。


「な、なんで俺の部屋にいんだよ。……明日香」


 心臓がドクドクと早鐘を打つ。

 明日香は俺の勉強机の前で椅子に座って、頬杖を付いていた。


「チャットしても電話しても、ヒロトが反応してくれないからでしょ。ヒロトのお母さんに頼んで、部屋の中に入れてもらったの」


 ……そういや明日香と別れたことを母さんに伝えていなかった。


 母さんは明日香に好印象を持っているからな……。明日香が母さんに頼めば、俺の部屋に入ることは容易だろう。


「帰ってくれないか」

「……やだ」

「俺たちはもう別れたんだ。勝手に俺の部屋に入られるのは困る」

「別れて、ない」

「別れたよ」

「別れてないから!」


 明日香はキュッと唇を引き締めると、両手を強く握り締める。


 俺は淡白な表情のまま。


「しつこいな……」

「……っ」


 自分でも驚くほど冷え切った声を上げる。


 聞きなれない声色を前にしてか、明日香はピクリと肩を上下させた。


「何度も同じこと言わせないでほしい。散々、明日香が言ってきたことでしょ」

「……そ、そう、だけど」

「たとえば今日、明日香は予定通りデートの待ち合わせ場所に来て、俺がライブを優先してたらどうなったの? 俺がライブを優先したら別れるって言ってたよね?」

「ヒロトなら、あたしのこと優先してくれるって思ってた……」

「別れる気は元からなくて、体のいい脅し文句として使ってたってこと?」


 コクリと小さく首を縦に下ろす明日香。


 俺は呆れたようにため息をこぼすと。


「今後はそういうことしない方がいいよ」

「う、うん! わかった! だ、だから──」

「じゃ、今すぐ俺の部屋から出てってくれるか?」

「え?」


 一瞬、瞳に光を宿すも、猫騙しを受けたみたいに呆気に取られた表情を浮かべる。


 そんな明日香に対して、俺はなおも続けた。


「だから出てって。もうカノジョじゃないんだし」

「や、やだよっ」

「ちょっとマジでしつこいよ。先に言っとくけど、復縁とかないから」

「……や、やだってば! ヒロト!」


 明日香は俺の両肩を力強く掴んでくる。


 涙をにじませ、掠れた声で懇願してきた。


「三十秒以内に出てってくれないかな。じゃないと、こっちにも考えがある」

「考え……?」

「親を含めて話し合いをする。明日香が別れた今も執着してくる件を、大人に相談して解決してもらう。別れるに至ったまでの経緯も全部話せば、俺の方に分があると思うよ」

「……っ。ご、ごめん。あたし、気持ち入れ替えるから。だから」

「あと二十秒」


 残り時間を告げると、明日香はビクッと肩を上下させた。


 俺の意思が固いことに気がついたのだろう。

 彼女はわずかに逡巡するも、自分の荷物を持って、俺の部屋を後にした。


 明日香がいなくなり、俺の部屋に静寂が訪れる。


「……はあ」


 全く、どうしてこうなっちゃったかな。

 付き合いたてのあの頃に戻りたい。なぜだかそんな感情が、そっと押し寄せてきた。

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