揺れる心と覚悟
「えっと、もう一回言ってもらっていいかな」
「俺、やっぱり明日香のことが好きみたいです」
白髭を蓄えたマスターが切り盛りしている喫茶店にて。
俺は知奈美さんに、自分の気持ちを吐露していた。
知奈美さんは心の底から当惑したような表情で。
「え、えっと、ヒロくんってカノジョ出来たんだよね?」
「……はい。でも、彼女といる時間が続くほど、明日香がチラついて。……彼女に対しては申し訳ない気持ちしかありません」
「確認なんだけど、どうして、その子と付き合ったんだっけ? 取り敢えず、新しいカノジョができればみたいな?」
「いえ、何回かデートして告白されて、最初は断ろうと思いました」
可愛くて、女の子らしくて、男を立ててくれて、気遣いもできて、正に理想を詰め込んだような子だった。
けれど、俺の気持ちは彼女に向けることが出来なかった。
だから、彼女からの告白を断ろうと思ったのだ。
けど。
「"今は好きじゃなくても良い"って言われて、ちょっと泣かれちゃったりもして、それで」
「気持ちが揺らいじゃったんだ?」
コクリと首を縦に下ろす。
自分で自分が嫌になりそうだ。
下唇をギュッと噛み締める。
「ちなみにその子は、どうしてヒロくんのことを好きになったの?」
「ああ、明日香と同じクラスなんです。明日香と付き合ってる時は、結構な頻度で明日香のクラスにも顔出してて、それで目に止まったみたいです」
一目惚れみたいな事を言われた。
明日香と別れた事を知って、勇気を出してデートに誘ってくれたらしい。
「……にゃるほど。人のものって、なんか余計に良く見えるもんね」
「え? なんですか?」
「ううん、ごめんなんでもない」
「そうですか」
蚊の鳴くような声で、ポツリとこぼす知奈美さん。
店内BGMに掻き消されて、よく聞き取れなかった。
「話を戻すけど、明日香が好きってどういうこと、かな」
「俺、明日香に対する感情がずっと分からなかったんです。好きなのか嫌いなのか、もう滅茶苦茶で、訳わかんなくて」
考えれば考えるほど、沼にハマっていた。
けど、彼女と付き合い始めてから、能美明日香という女の子と改めて向き合うことが出来た。
明日香はワガママで、自分勝手。けど、明日香にワガママ言われることが俺は嫌いじゃなかった。
たまに、こっちまで恥ずかしくなるくらいデレてくる素直さがあって、長い髪が好きって言っただけでちゃんと伸ばしてくれる健気さがあって、すぐに顔を赤くする明日香が可愛くて、好きだった。
「明日香がドンピシャなんです。俺にとっては。それに、今更、気がついて」
違う子と付き合ったからこそ、明日香が好きな事に気がついた。迷子だった気持ちから、ようやく抜け出すことができた。
知奈美さんは両手で顎を支えるポーズを取ると、下から覗き込むようにジッと視線をぶつけてきた。
「少し時間が経って忘れちゃったのかな。明日香って、かなり酷いことをヒロくんにしてたんだよ? そんな子に対してまだ恋愛感情を持つのは、賢明とは言えないかな。DV旦那から離れられない妻みたいな」
知奈美さんの例えは一見、的を得ている気がする。
だが、それは違う。
俺はわずかに視線を下げると。
「俺……色々、間違えてたなって思ってるんです」
ポツリと、懺悔するかのように、落ち着いた声で切り出した。
「最初、明日香に別れるって言われた時、言い返しもせず、黙って言うこと聞いちゃったんです。もし、あの時にちゃんと話し合ってればな、とか。それに、明日香に嫌われたくないばっかりに、なんでもかんでも言うこと聞いてました」
別れるとか気安く言わないでほしい。
その一言があるだけでも違った気がする。
黙って言いなりになる選択を取ったのは俺だった。その結果、明日香を助長させた。
圧倒的に話し合いが足りていなかった。
「それに、彼氏としての自覚がぜんぜん足りてくなくて。俺、普通に女子と遊びに出掛けてたりしてて。もし、逆の立場だったら絶対イヤじゃないですか」
明日香は、異性の友達がいない。
だから、そんな心配を俺がすることはなかった。
けど、想像すれば分かる話だ。
明日香が男友達と二人でどこかに出かけるなんて、良い気分しない。
やましい事はないと言われても、イヤなものはイヤだ。
想像力が足りていなかった。俺の方が自分勝手だった。
「だから明日香ばっかり悪い訳じゃないです。むしろ俺の方がダメなんです」
「そう、かな。デート遅刻したり、ドタキャンしたりもあったでしょ? それに関しては?」
「それは明日香が悪いですね。……ただ、甘やかしすぎたのはあります。少しは怒ってもよかったなって」
「……あんなワガママで、ヒロくんのこと困らせてばっかで、自己中な明日香だよ?」
「でもそんな明日香が好きです、俺」
別れると決めて以降、明日香の悪いとこばかりが目についた。
ワガママで、自分勝手で──。
でも、そんなのは織り込み済みで、俺は明日香に告白をしたのだ。
明日香にワガママ言われるのは嫌いじゃない。
明日香の身勝手に巻き込まれるのも嫌いじゃない。
『別れるから』って脅されることだけが嫌だった。
「……じゃあどうするの? 今の彼女には、やっぱり元カノが好きだからって振るの?」
「……っ。……最低ですね、俺」
知奈美さんからの容赦のない問いに、俺は胸がキュッと引き締められる。
彼女を振る理由が、あまりに自分勝手すぎる。
「あ、ごめんね。困らせちゃったね。でも、気持ちが向けられてないまま、お付き合い続けるのも良くないよね」
「……はい」
それこそ不誠実だ。
「ヒロくんが今の彼女と別れるのは賛成。でも、明日香とヨリを戻そうなんてのは気の迷いだと思う」
「気の迷い、ですか」
「うん。初恋に縛られちゃってるんだよ」
「縛られてる……」
「はぁ……もう、しょーがないなー。ここはお姉さんが一肌脱いであげよう」
「えっと、どういうことですか?」
知奈美さんは優しく微笑むと、前のめりになって俺の手を握ってくる。
「わたしと、付き合おーよ」
「は?」
予想していなかった言葉が飛び出し、俺は腑抜けた声を漏らしてしまう。
「ほら、わたしと明日香って姉妹だけあって顔も似てるじゃん。明日香の代わりになれるかなって」
「な、なに言ってるんですか……代わりって。大体、どうしてそんな話に」
「……わたしじゃ、だめ?」
「…………っ」
「にゃはは、冗談だってば冗談。真面目に捉えすぎ。まぁ、ヒロくんがどうしてもっていうなら考えてあげてもいーけど」
「た、タチ悪い冗談ですね……」
俺は頬をヒクつかせると、胡乱な眼差しを知奈美さんに向ける。
「というか、俺、明日香とヨリを戻そうなんて考えてません」
「え、そうなの?」
「はい。俺から二回も別れを切り出しておいて、やっぱりヨリを戻したいなんていえませんよ」
「…………」
「ただ、知奈美さんには何度も相談に乗ってもらったので、結論は伝えておかないとって思ったんです」
「……そういう、ことね」
今日は相談目的で知奈美さんと会っているわけではない。意志を表明するためだ。
「じゃ、今の彼女はどうするの? このままお付き合い続けるの?」
「いえ、俺の気持ちを隠さずに打ち明けて、謝ります」
結果的に、俺は彼女の気持ちに応えられなかった。こうなるなら、初めから付き合うべきじゃなかったと思う。
心を強く持って、彼女の告白を断るべきだった。
これは俺の過ちだ。
簡単に許してもらえることじゃない。
誹謗されても、仕方ない。でも、このまま関係を続ける方がもっと良くないから。
だから、彼女とは別れる。
「気持ちは固まってるんだ?」
「はい」
少し前までは、気持ちがフラフラしていた。
誰かに相談することは大切。
けれど、相談内容を鵜呑みにする傾向があった。
相談慣れしていない故だろう。
だが今は、キチンと自分一人で考えられている。
「……ひとつ気になってること聞いていい?」
「はい。なんですか?」
「明日香の何がいいの?」
知奈美さんは頬杖をつくと、ジッと俺の目を見据えた。
明日香の何がいいか、か──。
色々あるけど、一番は。
「笑顔が好きなんです。明日香、最初は全然、心を開いてくれなくて、表情も冷たくて、仲良くなるのは無理だと思いました。でも、明日香が友達と話してる時に無邪気に笑ってるの見て、なんか一気に心を奪われちゃって──って、単純ですね俺」
俺は自嘲気味に笑いながら、首筋をポリポリと掻く。
明日香が友達に向ける笑顔を、俺にも見せて欲しかった。
そうして試行錯誤を繰り返しているうちに、異性として明日香を好きになっていることに気がついた。
「ホントに単純だね」
「ですよね……」
知奈美さんは呆れ気味に笑うと、人差し指を俺に向けてきた。
「……わたしじゃ、ダメなんだろーな」
「え? なんですか?」
知奈美さんが消え入りそうな声で呟く。
またも店内BGMにかき消されて、聞き取れなかった。
「ううん。あんま深く考えないで答えてほしいんだけど、もう一個聞いてもいい?」
「……? はい」
「わたしと明日香なら、ヒロくんはどっち選ぶの?」
「は? ど、どういう意味ですかっ」
「いいから答えてってば。意味は考えないで」
「え、えっと」
どうしても意味を考えたくなるような質問が飛んでくる。
俺の頭上には大量の疑問符が浮かんでいた。
そういえば、以前にも、似た質問を明日香からされたことがあった。
答えはその時に出ている。
知奈美さんの質問の意図は汲み切れないが、俺の回答としては一つしかないだろう。
「──明日香です」
「そっか。ありがと、答えてくれて」
知奈美さんは残りのコーヒーを飲み干すと、荷物を持って席を立ち上がる。
「あーあ。なーんか馬鹿らしくなっちゃったな」
天井目掛けて両手を伸ばして、苦く笑う。
人差し指をピンと立てると、微笑を湛えながら顔を近づけてきた。
「最後に、お姉さんから一つだけアドバイス」
「アドバイスですか?」
「うん。当たって砕けなよ」
「え、どういう──」
「わたしの言いたい事が分からないほど、ヒロくんは鈍感じゃないでしょ?」
知奈美さんはふわりと微笑むと、ショルダーバッグを背負い直す。
当たって砕ける──。
成功するか分からなくても、思い切ってやってみる。
俺は拳を握ると、俯き加減に。
「でも……これ以上、明日香のこと振り回す訳には」
「そうかな。ヒロくんの良さって見かけによらず図々しいとこだと思うな。その図々しさで、明日香をオトしたんでしょ?」
「うっ……言い方きついな」
「にゃはは。わたし、お人好しじゃないからね」
「そう、ですか? 知奈美さんはお人好しな気が」
相談に乗ってくれて、アドバイスまでくれた。
けれど知奈美さんは、小さく首を横に振ると、トンと俺の肩を叩いてきた。
「わたしも、明日香と同じ血を引いてるから身勝手なんだってば」
「……?」
イマイチ釈然としないまま、知奈美さんは喫茶店を後にしていく。
一人きりになったところで、今一度考える俺。
そう、だな。
このまま終わりじゃ、煮え切らない。
どういう結果になるかは分からないが、やれる限りのことはやってみるか。
俺は俯いてた顔を前にあげると、残りの紅茶を飲み干した。
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