5
ちょうど風呂から上がった頃、俺宛てに電話が来たと祖母が声をかけてきた。携帯ではなく、固定電話にかかってきたという。
信也や功一、というか児備嶋の同級生のほとんどは中学校に入学した頃に番号を交換している。あいつらが何か連絡を寄越すとしたら、家族にあれやこれやと言われる家電は選ばないだろう。
だとしたら、電話してきたのは茜ヶ淵か、部活関係の生徒か、あるいは教師だ。面倒な用件じゃなければ良いけど、と思いつつ、俺はバスタオルを首にかけて電話を耳に当てる。
「もしもし」
『あ……もしもし、磐根君?』
「えっ、宝井?」
思いもよらない相手の声が聞こえてきて、俺は素でびっくりした。急に声が上擦って、俺じゃないみたいに聞こえていないか心配だ。
目の前に宝井がいる訳じゃないけど、知らず背筋が伸びる。髪の毛の先から、汗か水かわからない液体がぽたっと落ちた。
「ど……どうしたんだよ、急に電話かけてくるなんて」
『忙しかった? タイミング悪かったらごめん。でも、今日の……プール掃除の時のこと、話しておきたいと思って』
宝井からの電話ということで驚きはしたけれど、理由を聞いたら合点がいった。そりゃ、宝井からしてみれば言いたいことの一つや二つはあるだろう。
「宝井、あの時は本当にごめん……」
まず、謝らなければならないと思った。宝井が何か言い出す前に、姿が見えないことも忘れて俺は頭を下げていた。
電話機の奥から、数秒の間沈黙が伝わってくる。その後に、驚くくらい穏やかな声で、うん、と宝井が相槌を打った。
『そうだね、たしかにびっくりした。着替えを持ってきといて良かったよ。上から下までずぶ濡れだったし』
「……悪いこと、したと思う。もっといいやり方があったよな」
『そんなに腰低くならなくてもいいよ。そこまで怒ってるって訳じゃないし……磐根君、私のこと庇おうとしたんでしょ。余計なことしてくれたなって感じはあるけど、悪気があったんじゃないんだから』
「悪気がなかったら何をしてもいいってことはないだろ」
『それはたしかにそうだけど……でも、磐根君、本気で怒ってたでしょう。あんなの見たら、こっちだって勢い削がれるよ。磐根君もあんな風に怒ることってあるんだね』
電話越しの宝井はやけに優しい。本当に宝井なのかと、疑いたくなってしまう。
そんな宝井いわく、俺は目に見えてわかるくらいに怒っていたらしい。あの宝井が毒気を抜かれるってどの程度だろう、と考えてみるが、上手いイメージには至らなかった。自分のことを考えるのが一番難しい。
思えば、本気で怒ったのはいつぶりになるだろう。どちらかと言えば、周りの喧嘩を止めるか眺めているしかなかった俺としては、なかなか思い出せない。下手したら、これが初めてなんじゃないかとすら思えてくる。
そうだ、俺はなるべく争い事を招きたくないし、仲裁に入ることが多かった。自分が怒るというよりも、周りの気が立っていることに耐えられなくて、元通りに修復することばかり考えていた気がする。
これも、宝井だからなんだろうか。味方がいなくて、いつだって独りぼっちで孤立している宝井だったから、俺は怒れたのか。
『ねえ、磐根君。私なんかのことを気にかけてくれるのはありがたいけど、学校では本当に、他人のふりでいいよ』
不思議な気持ちになっているのも束の間、宝井からは何度目になるかわからないが釘を刺された。ただ、以前よりもその物言いは柔らかい。
「宝井に迷惑がかかるっていうなら、気を付けるけど……宝井はそれで良いのか? いつも思うけど、宝井は何も悪いことしてないのに、疑われてばかりっていうのはおかしいよ。何につけても犯人扱いされたり責められたりして、宝井は嫌じゃないのか」
いつもだったら引き下がるところだけど、宝井の態度が軟化している今日なら本音をぶつけてみても良いと思えた。意識した訳じゃないけど、自然と語気が強くなる。
受話器の奥で、宝井が息を吸い込んだのがわかった。多分、俺に返す言葉を選んでいる。これまでの付き合いで、彼女の行動パターンは粗方読めるようになった。宝井は、直感でぽんぽんと言葉を連ねない。いつだって、深く考えて、理性的に会話をする人だ。
『嫌なのは嫌だよ。でも、仕方ないんだって思ってる。こういうの、今に始まったことじゃないし……あと一年ちょっと我慢したら終わるから。だったら、変に波風を立てない方がいいって思う』
「……宝井が我慢してばかりっていうのは不公平だ。それなら尚更、誰かが味方にならないと」
『磐根君は純粋というか、なんというか……どうして今まで浮いてこなかったのか、不思議になるね。私はもう疲れちゃった。どうせ何もしてなくたって後ろ指を差されて、スケープゴートにされるんだから、これ以上苦しくなるような選択はしないよ。この環境がいきなり変わるとは思えないし、もうあいつらに期待なんてしてないから』
あいつら、と宝井が吐き捨てる中に、俺は入っているのだろうか。
何にせよ、宝井は諦めている。どれだけ教室で浮いても、時間が解決してくれるのだと信じて──不条理を受け入れるつもりなのだ。
たしかに、俺たちはあと一年と少しで中学校を出る。高校はある程度選択が利くから、今までと全く同じ状況にはならないかもしれない。
けれど──それが宝井と同じ場所を共有できるタイムリミットなのだと思うと、彼女には悪いが惜しいような気がしてならない。
宝井は川向こうの高校を志望するのだと以前言っていた。俺が進学しようとしているのは男子校だから、必ず高校入学と共に離れることとなる。
俺たちは、中学校を卒業してからも関係を続けていられるのだろうか。続けたい、と俺は思う。
『……じゃあ、そろそろ切るね。磐根君、部活もあるだろうし』
色々考えているうちに、宝井は電話を終わらせようとしている。俺としてはもう少し話していたいけど、たしかに明日は朝練がある。そこまで夜遅い時間帯ではないが、準備もあるしそろそろ切り上げないと。
「うん、じゃあ明日、学校で。その……水かけといてこんなこと言うのも変だけど、体、冷やさないようにな」
『気にしないで、泥水かけられた訳じゃないし。それじゃあ、切るね。おやすみ』
ぷつんと、電話が切れる。俺と宝井の繋がりもなくなった。
思ったよりも、宝井は怒ってないみたいだった。……けど、俺たちの関係が限定的なもので、宝井が端からクラスメートとの交流を諦めていると突き付けられたようで、胸の内側がもやもやする。
たとえ、来年の三月で終わるのだとしても。同じ教室にいる間だけでも、俺は宝井から友達と呼ばれる立ち位置にありたい。
すっかり乾いてしまった髪の毛を掻き回して、俺は立ち上がる。次、宝井と電話する時は、もっと長い時間話していられるだろうか。
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