6
俺は東側の階段を通り、昇降口や校門に誰もいないことを確認しながら下校した。
いつもなら、信也や功一と共に通っていた帰り道。二人と都合が合わなくて、やむなく一人で帰らなければならない時は寂しく思うこともあった。だが、今日に限っては彼らがいないことに安心してしまう。
俺の杞憂かもしれない、と思いたい気持ちはあった。信也は基本的に人見知りをしない性分で、女子に対しても気後れしたところはない。男子は女子程出身校に隔たりを感じてはいないようだし、猫屋敷と接点ができたのならフレンドリーに話すこともあるだろう。二人はあくまでも友人として、校門までいっしょに行動していたのではないか。
しかし、それは言い訳だと俺はわかっている。あの二人の距離感は友人としてのものではないと、直感的に気付けない程俺は鈍感ではなかった。いくら人懐っこい信也でも、あれだけパーソナルスペースを許す相手はそうそういない。
付き合っているのか、それともまだなのか。どちらにせよ、大野に話を通してはいないだろう。
気分も、タイミングも、何もかもが最悪だった。いつも通っているはずの帰路はいやに長く感じられて、早く帰りたいはずなのに足は上手く進んでくれない。両足に重りを付けられたような感覚すら覚えた。
靴の裏がざりざりとする。農道に入ったのだと気付いた。規則的に足を動かすことばかり考えていて、自分が今どこを歩いているのかすら見えていなかったようだ。よく道を間違えなかったものだと、ため息を吐きたくなる。迷ったところで児備嶋地区はそれほど広い訳でもないのですぐにもとの道へ戻ってこれるだろうが、信也の家の方向へ行って彼と鉢合わせることを考えるだけで寒気がした。
視界の端に、こんもりとした緑が見える。天神さんだ。
その鳥居の横に停められている自転車を捉えた瞬間、俺の足は止まっていた。
宝井がいる。彼女が、ここに来ている。
いやに、喉が渇いた。無理矢理唾を飲み込んで、動かない自転車を見つめる。
ここで初めて宝井を見た日のことを思い出した。夕日に照らされて、ただ静かに立ち尽くしていた宝井。その横顔は教室にいる時と変わらず、見慣れたものでもあったのに、何故か俺は宝井を怖い、と思った。
それなのに、見なかったことにしようとは考えられなかった。もう一度ここで宝井と会えるなら、その機会を逃したくないとさえ願っている。信也と猫屋敷の姿を見てしまったことで空いた心の穴が、どうしてか宝井で埋まるという確信がある。
知らず、足が動いていた。
鳥居を潜り、薄暗い木立の中に入る。部活がある時よりも早く下校したから、まだ日は高くあの日のような夕日は遠い。
社殿を前に立ち尽くす宝井だけが、過去の風景をそのまま切り取って貼り付けたように同じだった。
「宝井」
俺が声をかけるまで、宝井はクラスメートの存在に気付かなかったようだ。はっとした様子で振り返り──数歩、後ずさる。
表情が硬い。しかし、普段のような無表情ではない。警戒心と、僅かな怯えが見てとれる。
ノーメンちゃん、というあだ名には、似合わない顔だった。
「……何」
ややあってから、宝井が口を開く。騒がしい教室の中なら、喧騒に紛れて消えてしまいそうな声量だ。
尤もな反応だ、と思う。大して交流のないクラスメートが突然目の前に現れたら、不審に思わずにはいられないだろう。少なくとも、宝井にとって俺の出現は予想外だったに違いない。俺が一方的に知っていただけで、宝井は俺の家が天神さんの近くであることすら知らないのかもしれないのだから。
ゆっくりと息を吐き出す。何故だかはわからないが、俺は宝井と対話がしたかった。ここで宝井に逃げられてはいけない。注意して言葉を選ばなくては。
「宝井、茜ヶ淵出身だよな?」
問いかければ、宝井は案の定怪訝そうな顔をした。そのまま反応しないかと思ったが、彼女は小さくうなずいた。
「なんでここにいるんだ? 家、反対じゃないのか」
咎めるような口調にならないよう、精一杯柔らかい響きを心がける。
信也のような、クラスの中心にいる生徒は、そうでない──教室内であまり目立たない立ち位置にいる──生徒に対して、不機嫌な時は八つ当たりと言わんばかりの振る舞いをする奴も多い。実際に、この前部活でミスをしたとかで機嫌の悪い信也が、いわゆるオタクに属するであろう男子の机を蹴り付けていた。何の非もない彼は、びくりと怯えた様子で体を震わせたが、抗議することはなかった。たとえ自分に非がなくとも、言い争って勝てないことなどわかりきっているからだ。それくらい、上位の生徒による横暴とも言える振る舞いは日常茶飯事だった。
信也のことは友人として好きだけど、あいつと同類に見られるのは嫌だ。先程の出来事抜きでも、きっと俺はそう思い、宝井に対して慎重に話しかけただろう。
俺からの問いを受けた宝井は、すぐに答えることなく、そっと目をすがめた。目元しか動かない。強張った頬や、真一文字に引き結ばれた唇は変わらず、そのまま。
変化の薄いその顔つきは、不思議と俺の心を落ち着かせた。日々変わっていくクラスメートとは対照的で、恋愛的な意味は全然ないけど、好ましいもののように思えた。
「──
よく通る声だった。
だから聞き間違えている可能性は低いのだろうが、何せ聞き馴染みのない単語だ。響きからして、人の名前のはずだ。──いや、緑茶のメーカーとかかもしれない。今時、何々左衛門、なんて付ける親はなかなかいない。
何にせよ、俺は宝井の言葉の意味を理解できなかった。今初めて聞いたのだから、無理もない。
俺と宝井は数秒間、無言で相対していた。宝井は表情を変えず、目線を外すこともなく、そのままの姿勢で続ける。
「ここで死んだんだって。だから、見に来た」
いきなり物騒な単語が飛び出した。自分では確かめようがないけれど、多分俺は目を見開いたと思う。
咄嗟に周囲を見回したが、当然の如く遺体はない。というか、死を連想させるものがそもそもない。ここにある人工物と言えば、社殿くらいのものだ。
それに、見に来た、と言うが、宝井に野次馬のような雰囲気は見受けられない。学校にいる時よりも確固とした存在感があって、背筋も心なしかしゃんと伸びているような気がするけれど、それ以外はいつもの宝井だ。非日常による興奮や高揚は微塵も感じられなかった。
「……知らないならいいよ」
俺がどんな顔をしていたのかわからないが、自分の話を理解していないことは察したのだろう。これ以上説明するのは諦めた、とすぐにわかる声色で、そうこぼした。
宝井が僅かに顔を伏せる。長い前髪が揺れる。
ちり、と顔の表面をくすぐられるような感覚に襲われた。直感、と言えば良いのだろうか。きっとこうなるだろうっていう、予想。
──俺が何も言わなければ、宝井は去ってしまう。
「いや、教えて欲しい」
今まさに一歩を踏み出そうとしたのだろう。ざ、と雑草を少し踏む音がした。
宝井はおもむろに顔を上げる。一重瞼の奥にある目が、これでもかと見開かれていた。睨まれているようにさえ思えた。
ふううう、と宝井が息を吐き出す。その唇は小さく、薄い。
「……慶長出羽合戦、知ってる?」
でも、そこから紡ぎ出された声は真っ直ぐ澄んでいて、教室で聞くぼそぼそと乾いた宝井のそれとは思えなかった。
またしても聞き覚えのない言葉だったので、俺は首を横に振る。宝井は特にこれといった反応は示さず、そう、と呟いてから質問などなかったかのように続けた。
「慶長五年、西暦に換算すれば千六百年に、関ヶ原の戦いに呼応して出羽国……大雑把に言えばこの辺りでも戦いがあったの。それがさっき言った慶長出羽合戦。その時村山や最上地域を治めてた最上氏は東軍に付いたから、対して西軍に付いた上杉方は、当時の所領だった庄内と米沢の南北から挟み撃ちにしようとしたって訳。本当は最上と上杉、あと伊達氏の間で色々因縁があったり、中部や畿内……関西の戦いが絡んだりもしてるんだけど、面倒だから省くね。……ここまで、大丈夫?」
よくもまあ、すらすらと淀みなく説明ができるものだ。俺は素直に感心した。
ここまで饒舌な宝井を見るのは初めてだ。心なしか声もはきはきしているし、表情こそ変わらないものの彼女の調子が良いことは一目瞭然だった。
しかし、教科書に載っているような大々的な出来事と関連して、地元でも戦いが起こっていたとは。俺は授業で習う程度の知識しか持っていないので、宝井の説明には驚かされた。慶長出羽合戦。家に帰ったらパソコンで調べてみよう。
全て理解できている訳ではないが、宝井の手を煩わせる気にもなれなかったので、俺はおとなしくうなずいておく。宝井に理解の遅い人間だと思われたくない気持ちも、ほんの少しあった。
「それで、この辺りは最上家によって支配されてたから、当然上杉軍からの攻撃を受けたの。……茜ヶ淵の、公民館の近くに行ったことってある?」
「いや、ないな。バイパスの近くなら、車で通ることもあるけど……」
「そっか。今はお堀と城跡しか残ってないけど、慶長出羽合戦の頃にはお城があったらしくてね。最上家の家臣が城代に入ってたんだけど、件の戦いで攻め落とされたらしいんだ。その城代に仕えていたのが、さっき言った呉井璃左衛門」
ふう、と息を吐いて、宝井は最後にこれでおしまい、と言った。小学生の頃、司書の先生が読み聞かせを終える時も同じように言っていた、と場違いに思い出す。
宝井はもういいでしょ、と言いたげな顔をしていた。俺が一言、教えてくれてありがとう、とでも言えば、この場から立ち去ってしまいそうな雰囲気さえあった。
「あのさ、」
話を切り出すのに躊躇いを覚えるのは、おかしいことだろうか。誰にでもなく、俺は思う。
信也や功一に話しかける時、俺はこんなに緊張しない。聞いてもらえるという漠然とした確信があるからだろう。俺の言葉ひとつで、どう動くかわからない宝井とは違う。
怪訝そうにこちらを見る宝井から目を逸らしたい気持ちを抑えつつ、俺は口を開いた。
「それで……結局、どうなったんだ? 結果は」
呉井璃左衛門はここで死んだ。だが、死ぬまでの過程と、その後の経過──それに、宝井がここにいる理由まではわからない。
宝井はゆっくりと瞬きした。スローモーションみたいだった。
「西軍が負けたけど」
「いや、そうじゃなくて……なんで呉井璃左衛門がここで死んだのかとか、どうして宝井が今ここにいるのかとか、そういうことを教えて欲しいんだ」
返ってきた答えがあまりにも素っ気なかったので、俺はその場でずっこけそうになった。さすがに関ヶ原の戦いの結果は俺でも知っている。
宝井の顔が、少ししかめられた。面倒臭い、という彼女の内心が伝わってくるようで、俺は思わず苦笑してしまう。不本意なことだが、嫌な気持ちにはならなかった。
「城代は城から脱出して、関山峠を通って伊達氏のところに逃げたんだけど……呉井璃左衛門は残って戦った。城代を逃がすためか、それとも逃げることを恥と思って、最後まで戦おうとしたのか……史料がすごく少ないからわからないけど、とにかく呉井璃左衛門は僅かな手勢を率いて上杉軍と戦い続けた。全国で知られてるような武将には及ばなかっただろうけど、寡兵とは思えない奮戦ぶりだったみたいだよ。まあ、率いる軍勢に差があったのは確実だろうから、劣勢なことに変わりはなかったんだろうけどね。いつ死んだのかは不明なんだけど、落城の翌日、ここで独り死んでるのを見つけられたんだって。 どうして死んだのか、までははっきりしないけど、大方負傷してそのまま……って感じだろうね。切腹してるならそう記録されただろうし。上杉軍の中で、呉井と交戦したとか、見かけたっていう人が結構いたみたいで、それで話が伝え広められたらしいよ。私はそれを最近知って、せっかく学区内にゆかりの土地があるなら見てみようって思っただけ」
一息に告げてから、宝井はじろり、と俺を横目で見た。
「言いふらせば?」
「……は?」
宝井の発した言葉の意味が、俺にはわからなかった。
冷ややかにこちらを見つめる宝井は、ますます不機嫌そうな顔になった。これ見よがしにため息を吐き出して、俺のことを白眼視する。
「気持ち悪いと思ったでしょ、勉強にも受験にも役に立たないことばっかりべらべら喋って。宝井は気持ち悪いオタクだ、レキジョだって、皆に言えば? 話のネタになるだろうし、ちょっと気分が悪い時は、ストレス発散にいじれるよ」
「待て、待ってくれ、何の話だよ? 俺、気持ち悪いなんて一言も言ってないだろ」
「じゃあ、なんでこんなことで話しかけたの? 私なんかにわざわざ話しかけるって、笑いのネタが欲しいだけでしょ。皆、暇だもんね。私とひとつも関係ないビデオを見ただけで、ノーメンちゃんだの何だのって……抵抗しなくて気軽に貶められる、自分たちよりも弱い、下の存在を探してるんでしょ、どいつもこいつも」
ずん、と背中に重石を乗せられたような感覚だった。
宝井の目が湛えるのは、紛れもなく俺への──いや、俺たちへの嫌悪だ。教室で無表情を貫いている宝井は、口や態度に出さないだけで相当嫌な思いをしてきたに違いない。でなければ、こうも俺に怒りをぶつけはしないはずだ。
可哀想だ、と思ったのは俺の
「違う」
まずは謝るべきだろうとも思ったが、それよりも先に否定したいという気持ちが先行した。
「俺、別に宝井をネタにしたいとかで話しかけた訳じゃない。純粋に、どうしてここに茜ヶ淵出身の宝井がいるのか気になっただけだ。宝井が何のためにここへ来ようが、笑うつもりなんてない」
「口ではどうとでも言えるよね」
「それは、そうだけど……。でも、俺は宝井を笑いたいとか、そういうのじゃない。ちゃんと話せて、良かったと思ってる」
「……あのさあ」
宝井が幾分か声色を和らげた。少しほっとして彼女の顔を見ると、宝井は憐れみをありありと表に出していた。
「何かの罰ゲームとかやらされてる? 私が良い感じに締めれば解放されるとかなら、そうするけど……」
「そ、そんな訳ないだろ!」
思わず大きな声が出た。宝井に気を遣われたから自尊心が傷つけられた──とかではなく、相手を傷つけるような憶測をさせてしまったことが腹立たしかった。
突然の大声に驚いたのか、宝井の肩が揺れる。一瞬でも怖がらせてしまったと思うと、申し訳ない気持ちになった。ごめん、と前置きに謝罪する。
「俺は、個人的に気になって、宝井に声をかけたんだ。ネタにしたいとか罰ゲームとか、そういうことじゃない。それに、地元のこととか、全然知らなかったから……宝井の話、面白いと思ったよ。この辺りが昔どうだったかとか、想像したこともなかった」
宝井は黙っている。黙って、俺を睨み付ける。
こんな風に、ひとつひとつ言葉を選びながら話すのはいつぶりだろう。緊張したし、居心地の悪さは否めなかったけれど、それが逆に新鮮だった。学校でこういった話をする機会なんてほとんどない。大抵が、勉強とか、部活とか、あとはちょっとしたことで変わる人間関係とか、決まりきったことばかりだ。それらはどこかで俺自身と繋がっているから、なおざりにする訳にもいかない。目を背けたくても視界の端にちらつくのが、俺にとってはきつかった。
でも、宝井との話──呉井璃左衛門の話は、何となく違うような気がした。新しいことが知れて、純粋に嬉しかった。それは地元で生きて死んだ人物の話だけではなく、ほとんど話さなかったクラスメートと話せたということもある。俺は、宝井のことが少しでも知れて良かったと思っている。
このまま、宝井にとって嫌悪すべきクラスメートの一人でいたくはなかった。完全に認識を変えるのは難しいとわかってはいたけれど、それでもなれるならやたら言い訳を並べる鬱陶しいクラスメートの方が良い気がした。
「ありがとう、色々教えてくれて。またここで会えたら、俺の知らない話、聞かせて欲しい」
宝井の唇が、への字になった。不満があるけど口にはしたくない、何とももどかしそうな顔だった。
その場に根を張っていたかのように動かなかった宝井は、何事もなかったかのように俺の横を早足で通り過ぎた。体育の時のどんくさい動きからは想像もできないくらいの速さに、俺は内心で驚く。あいつ、あんな素早く動けたんだ。
気が付くと宝井の姿は見えなくなっていて、俺は慌てて鳥居の外に出る。宝井は既に自転車に跨がっていて、今にも走り出しそうだった。
「宝井!」
呼び掛ければ、宝井は不機嫌そうな顔をしつつも振り返った。無視はしないんだな、と思うと、変なところで律儀なんだな、と笑みがこぼれそうになる。
「また、学校で」
何気ない別れの挨拶。本当はしなくても良いはずなのに、何故だか声をかけずにはいられなかった。
宝井は仏頂面のまま、うん、とだけ返す。その直後に彼女の足はペダルを踏み、あっという間にバイパスの方──俺の家がある方向へと、走り去っていった。その後ろ姿はぐんぐんと遠ざかり、俺が立ち尽くしている間に見えなくなってしまった。わざわざ学校を迂回するルートを通っているのだろう。学校の生徒とは、会いたくないのかもしれない。
学校を出た時にわだかまっていた胸のもやもやが、少し晴れたように感じられる。大した会話はできなかったし、宝井を傷つけてしまったかもしれないけれど、俺はたしかにあいつと話せて良かった、と思えていた。
宝井詠亜。ノーメンちゃん。俺の隣の席にいる、物静かでいつも独りぼっちの女子生徒。
また、ここで会えるだろうか。二度目があって欲しい、と思う。
よし、と誰にでもなくうなずいて、俺は歩き出す。どんよりと重かった足取りは、いつの間にか忘れてしまっていた。
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