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 これまではからりとした天気が続いていたものの、六月に入るとやはり雨の日が増える。ニュースでは東北地方も梅雨入りしたとのことで、しばらくは雨と湿度が日常のお供になりそうだった。

 体育館の床も、何となく粘ついている気がする。靴裏が気持ち悪くて、へばりついた何かを落とすつもりで床に擦り付けてみた。……うん、何も変わらない。つまりこれは俺の気持ちの問題で、実際のところ床はいつも通りだし靴の裏には何も付いていないのだ。

 ぽーん、と放物線を描いてボールが飛んでいく。青と黄色、ミカサのボールだ。

 ちらりと背後を顧みると、ほっとした顔で持ち場に戻る宝井の姿が見えた。今のは彼女のサーブで、問題なく相手コートに入った。失敗すれば糾弾は免れないとわかっているのだろう、河北で言ったように練習してきたのかもしれない。誰にもその様子を見せないまま、平然とした顔で。

 二人でいる時は喜怒哀楽をはっきりと顔に出し、下手したら俺よりもよく喋る宝井だが、校内になると急に無口で無表情になる。前々から思っていたが、ここまで徹底しているとまるで動く物体オブジェだ。いつだったかテレビで見た、人の形をしたロボットに似ている。

 今までは気にしていなかったが、体育の時間、宝井は意外とよく動く。とはいえ積極的に試合に参加しているのではなく、如何にボールから逃げるかを重点に置いているので、見習うべきものではない。

 そういえば、二年生に進級してすぐの頃にドッジボールをした。球技となると消極的になる宝井ではあるが、ボールには当たりたくないのかその時の動きはやけに俊敏だったのを覚えている。コートにひとり取り残された宝井はひたすらボールを避け続け、結果的に誰も彼女を外野に追いやることができないまま授業は終わった。

 あの時のことも考えると、宝井は球技というよりも、ボールそのものが怖いのではないかと思う。当たったって死ぬ訳ではないけれど、まあ地味に痛いし、怖がる気持ちはわからなくもない。俺としては、青あざができるまで二の腕を叩かれる方がよっぽど痛いのだが、宝井はどうなのだろう。痛いとは言っていたから、全くのノーダメージという訳ではなさそうだが。

 そんなことをぼんやり考えながら適当にボールを回したり打ったりしていたが、後方で何やら大きな音がしたので反射的に振り返る。人が倒れたような音だった。


「ぷっ、ノーメンちゃん、真面目にやれよー」


 振り返った先では、宝井が尻餅をついている。真っ先に声を上げたのは長内で、彼の声に続いてくすくすと笑いが起こった。ややあってから、ボールがネットの側に落ちる。

 宝井は片手で鼻の辺りを押さえていた。この様子から見るに、顔面でボールを受け止めてしまったのだろう。視界が定まらないのか、前髪越しでもわかる程目を白黒させている。

 皆、宝井の失態を笑うだけで、誰も手を差し伸べようとはしない。保健室に行くにしたって、まずは立ち上がらなければ何も始まらない──俺は一歩踏み出し、宝井に近付こうとする。


「……大丈夫。私は──」


 俺の意向を瞬時に察したのだろうか。宝井は掠れた声で誰にでもなくそう告げると、顔に当てていた手を退け、両手をついて立ち上がろうとした。

 ──が、その前に、宝井の顔が驚きを映す。


「──あ、」


 あっと思った時には遅かった。宝井の鼻からつうっと赤が流れる。宝井もまた、鼻血を出すとは思わなかったのだろう。きょとんとした顔で目を見開いた。

 ぼたぼたと、宝井の血液が伝い落ちていく。宝井の体操着に染み込み、床に落ちる。


「うわ、汚ねっ」


 広沢が大袈裟に身を引いて、宝井の血から遠ざかる。汚いと言ってはいるが、拭き取る気配はない。ただの汚物として揶揄したいだけなのだろう。

 怪我人になんてことを言うんだ、と抗議したかったが、それよりも先に宝井は動いていた。初めにしていたのと同じように手で顔の下半分を覆うと、大儀そうに事の成り行きを傍観していた伊藤の方を見遣る。


「保健室に行ってきます」


 伊藤の返事を聞かぬまま、宝井はさっさと体育館を出ていった。未だはやし立てている、あるいは遠巻きに冷笑しているクラスメートをものともせずに、多少ふらついてはいるが確かな足取りで去っていく。

 どうして誰も心配しないんだ。笑い飛ばしている長内を、広沢を、おかしいと指摘しないのか。

 かっと目の前の景色がぼやける。こんなに強い苛立ち、いや、憤りを感じたのはいつぶりだろうか。噛み締めた奥歯が擦れて嫌な音を立てる。どこか怪我している訳でもないのに、口の中にじんわりと血の味が広がった。

 落ち着け、落ち着けと、俺は自分に言い聞かせる。宝井が血を流した時、何もしなかったのは俺も同じだ。俺と宝井は学校の外だけの付き合いで、校内では他人。何より、宝井がそれを望んでいる。この前だって、余計なことはするなと釘を刺されたばかりじゃないか。

 一度目を閉じたら、何とか気分が鎮まった。授業が終わったら、こっそり様子を見に行こう──そう考えると時間の流れは急激に速まって、それなりの対応を繰り返していればいつの間にか授業終了の十分前になっていた。体育は片付けや着替えがあるから、座学よりも早めに活動が終わるのだ。

 宝井の落とした血は、すっかり乾いて固まっている。今のうちに拭いておこうか──そんな考えと共に雑巾を手に取ろうとした矢先のことだった。


「──ない……!」


 響いたのは、高く、今にも泣き出しそうな声。

 俺と同じ用具室にいた面々も、その声を聞き取ったらしい。なんだなんだと野次馬のように体育館へと戻る。彼らに押されるようにして、俺も用具室を出た。

 体育館の端、皆がタオルや水筒を置いているスペースで、座り込んでいる女子がいる。彼女の周りには三人、同じように目線を合わせながら寄り添う女子生徒の姿があった。

 ──猫屋敷姫魅。


「おいおい、これってどういうこと? またシンがなんかやったの?」


 長内が茶化すように切り出す。モップがけをしていたらしい信也はさっと顔を青くさせると、物凄い勢いでこちらに駆け寄ってきて弁明した。


「ばっ、違えよ。俺は何もしてない、断じて! 詳しいことはよくわかんねえけど、タオルがなくなったとかで」

「タオル?」

「そそ、バレー部でお揃いの。片付けやってる間になくなってたとか何とかでさ……」


 信也の必死の釈明をBGMに、俺は猫屋敷たちの方を見る。猫屋敷は両手で顔を覆っている──表情は見えないが、肩を震わせているところから察するに泣いているのだろうか。信也と付き合っていることが露見した時は、悲しげな顔はしつつもここまで取り乱してはいなかったのに。


「どうしよう……先輩たちともお揃いの、大事なタオルなのに。どこに行っちゃったの? わたし、ここに置いておいたはず……」


 猫屋敷の声は震え、揺らいでいる。干川たち茜ヶ淵の女子たちは、おろおろと彼女を慰めた。


「大丈夫だよ、姫魅ちゃん。きっとすぐ見付かるよ」

「誰かが間違えて持っていっちゃったのかも」

「後で職員室にも行ってみよう?」


 うつむきながら、猫屋敷はこくりとうなずく。しかし、その全身に纏う空気に納得した様子はない。

 いつまでちんたらしてるんだ、と伊藤が苛立ちを隠さずに声を上げる。それを皮切りに、俺たち野次馬はまた片付けを再開した。伊藤の機嫌を損ねて面倒事を呼び込みたくはない。

 きっと、ここにいるクラスメートたちは宝井が怪我したことなど忘れているのだろう。床に落ちて凝固した血液は、すっかり床の一部として踏みつけられ、素通りされるばかりだった。

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