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俺の知らない間に、宝井は早退していたらしい。給食の準備の合間を縫って保健室を覗いてみたが、いるのは養護教諭一人だけだった。教室に戻って初めて、宝井の荷物がなくなっていることに気付く──俺たちが体育館にいる間に帰ったのだろう。それだけ怪我の状態が酷かったのかと心配になる。
宝井の安否を気にしているのは俺だけのようで、教室は猫屋敷に注目していた。着替えを終えて教室に戻った猫屋敷は落ち着いてこそいたものの、目に見えて不安げなのがわかる。あのタオルは、彼女の精神を乱す程に大切なものだったのだろうか。俺にはよくわからない。
猫屋敷たちは職員室に落とし物がないか探しにも行ったようだが、この様子どと見付からなかったのだろう。茜ヶ淵の女子に囲まれながら、猫屋敷はうつむいて教室を出ていった。
鷲宮がいないことを確認し、俺は宝井の机に無造作に置かれた配布物をまとめる。クリアファイルか何かがあれば良かったが、とりあえず揃えておくに越したことはない。問題は、これらを誰が持っていくかだが──俺が悩むより先に、奴はやって来ていた。
「あっ、磐根君、まとめてくれてたんだ。先生助かっちゃうよ」
へらへらと笑いながら近付く男──秋月だ。今日も今日とて締まりがない。生徒が夏服になるタイミングでジャケットをやめ、クールビズに移行したようだが、シャツもシャツでどことなくよれている気がする。今は腕まくりしているだけだが、半袖になれば少しは爽やかになるだろうか。
そんな秋月は俺が揃えている配布物に目を遣ると、ごく自然な仕草で片手を差し出す。
「それ、先生が届けるからさ。あとは任せてくれちゃって大丈夫だよ」
届ける──その先が宝井の家であることは明白だった。
一応、帰りのショートホームルームで、宝井の家に配布物を届け出る人がいないか担任の木下が聞いてはいた。しかし茜ヶ淵の生徒は誰も挙手せず、帰る方向が反対の俺が手を挙げるのはさすがに不自然かと思案しているうちに、ショートホームルームは終わった。クラスメートたちは、宝井が怪我したことなど気にも留めない様子で、それぞれ放課後へと移行している。
ぎゅっと拳に力を込める。相手が秋月とはいえ、切り出すのには勇気が要った。
「……先生。良ければ、俺に届けさせてもらえませんか?」
「え? 磐根君が?」
案の定、秋月は眼鏡を押し上げて困惑をあらわにした。いやいや、と続く声は軽い。
「磐根君、家の方向逆じゃない。わざわざ遠回りすることないと思うけど」
「それは大丈夫です。一旦家に戻って、自転車で行きます。ちょうど雨も上がってますから」
「やけに強情だね。磐根君、実は結構頑固だったりする? それにしたって、理由がわからないなあ。磐根君と宝井さんって仲良かったっけ」
秋月の視線に、訝しげな色が混じる。たしかに、何も知らない相手からしてみれば、俺たち二人はただ席が隣同士なだけのクラスメートで、属するグループだって違う。宝井に関しては孤立しているから、どこに所属している、というのとはまた別の話だが。
しかし、ここで退いてはいられない。俺は一度唾を飲み込んでから、何事もないように口を開く。
「今、英語の授業でグループ活動をやってるんです。来週の発表のことで色々相談したので、それを伝えたくて。口頭で伝えた方がわかりやすいでしょうし……それに、俺は学級委員ですから」
英語の授業で発表があるのは本当だ。グループごとに英語の文学作品を朗読する。俺たちのグループは、オズの魔法使いの一部を発表することになった。今日はそれぞれが朗読する部分を割り振ったので、それを宝井に伝えなければと思った──要は、体の良い口実だ。
挑むように、真っ直ぐ秋月の目を見つめる。銀縁眼鏡の奥にある二つのそれは存外に鋭く、よくよく目を凝らしてみると三白眼であることがわかる。威圧感や凄みを感じないのは、持ち主がいつも軽薄だからだろう。
秋月はゆっくりと瞬きした。その後に、へらりと口角が持ち上がる。見慣れた笑みだった。
「そう、じゃあお願いしようかな。磐根君、宝井さんの家わかる?」
「大丈夫です。ありがとうございます」
本当は宝井の家なんて知らなかったけれど、入学式の時に配られた緊急連絡網を記載した名簿を見れば良い。俺はさっさと秋月との会話を切り上げ、足早に学校を後にした。
雨でグラウンドが使えなくなってしまったから、今日の部活はない。室内でトレーニングをすることもあるが、他の部活が体育館をどれだけ利用しているかで部活の有り無しは左右される。今日はバスケ部とバレー部が体育館を目一杯使っているから、陸上部の入る隙はない。
早足で家に帰り、宝井の住所を確認してから自転車に乗り込む。また雨が降ってきたらいけないから、一応レインコートを畳んで籠に入れておいた。
バイパスに向かって農道を進む。宝井の家は茜ヶ淵地区の東側、他の中学校の学区との境界に近い場所にあるようなので、わざわざ学校の前を通るのは遠回りになる。びゅんびゅん通りすぎていく車、それらが残していく風に髪の毛を乱されながら、稲の青いにおいと雨上がりの埃っぽさを含んだ空気に目を細める。
もうすぐ夏が来るのだ、と思う。東北の夏は短いけれど、この辺りは盆地なので毎年暑くなる。体調を崩さないよう気を付けないと。
そうこうしているうちに、確認した通りの住所までたどり着いた。第一に抱いた印象は、とにかく大きい、というか広い家だということ。古めかしい日本家屋と、今っぽいデザインをしたクリーム色の壁の家が渡り廊下で繋がっている。家一軒分ありそうな庭は、花だけでなく樹木もいくつか見受けられ、そのいずれもきちんと手入れされているように見えた。
ここが、宝井の家。人違いがあったらいけないと思ったけど、表札にはちゃんと宝井とある。玄関口で深呼吸し、俺は緊張感と共にインターホンのボタンを押した。応答の代わりにぱたぱたと足音がして、扉が開く。
「どちら様?」
出てきたのは、細くて小柄な老女。一重の目が、訝しげに俺を見上げている。宝井によく似た──この場合宝井が似ているのだろう──顔立ちをしているから、きっと宝井の祖母なのだろうと俺は推測した。
ここで黙り込んでいたら完全に不審者だ。俺は余所行きの笑顔を心がけながら、なるべく朗らかな風で用件を伝える。
「こんにちは。俺は宝井……詠亜さんのクラスメートの、磐根といいます。今日、宝井さんが早退されたとのことだったので、配布物をまとめてお届けに来ました」
テストでも難儀したけれど、実際に話すとなっても敬語は難しい。失礼にあたる言葉遣いはないだろうか、と不安になっていたのも束の間のことで、老女は、あらあらあら、と相好を崩した。
「詠亜ちゃんの同級生ねえ! ないだってまあ、遠いどごろがらご苦労様。大すたものはねんだげんと、上がってけらっしゃい」
「はあ……あの、ご迷惑になるかと思いますので、お気持ちだけ──」
「あーっ、詠亜ちゃんってガッコに友達いたんだー!」
うちの祖母にも負けず劣らずの訛りだな、と思っていると、奥から小学生くらいの男の子がひょこっと顔を出した。以前仙台駅で見かけた子だ──恐らく宝井の弟だろう。
何ともあけすけな物言いをする彼は、どたばた足音を立てながら近付いてくる。その後ろから、
「風雅には関係ないからあっち行ってて! おばあちゃん、あとは私が対応するから。何もしないで大丈夫」
「えー、関係なくないでーす。詠亜ちゃんぼっちって言ってたのに、ウソ吐いたー。ダメなんだよウソ吐いたら」
「いいから、あっち行っててって言ったでしょ!」
「うわ~、やーめーてー。詠亜ちゃんのゴリラ~~~……」
懲りた様子のない弟の両脇に腕を入れ込んでずるずる引きずり、しばらくしてから宝井は再び顔を出す。もう鼻血は止まっているようだったが、貧血ゆえか、はたまた弟の相手をしたからか、その顔色は悪い。
「……茶の間で待ってて。すぐ行くから」
「わ……わかった」
言うなり、宝井は祖母の腕を引っ張って立ち去っていく。有無を言わせぬ口振りに、俺はただうなずいて言うとおりにするしかなかった。
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