6
茶の間にいろと言われたは良いが、何をするでもなく待っているだけの時間とはやけに長く感じる。もともと置いてあった座布団の上に腰を下ろし、俺は周囲を見回した。
テレビとちゃぶ台があることから、大抵の来客はここに通しているのだろう。それにしては物が多い部屋である。そのほとんどはおもちゃで、戦隊ものだったりミニカーだったり、男の子向けなのだということがわかる。足下にサッカーボールがあったので、入る時に危うく蹴っ飛ばしそうになってしまった。ボールが嫌いな姉に反して、弟はそうでもないようだ。
「……お待たせ」
がらりと扉が開き、宝井が顔を覗かせる。両手でお盆を持っており、その上に乗せられたお茶を俺の前に置いた。
「ごめんね、やかましくて。わざわざ持ってきてくれてありがとう」
「いや、大丈夫。それよりも宝井、具合は平気なのか?」
「うん、まだちょっと頭は痛いけど、大したことじゃないよ。どこも折れてないし、少し鼻の粘膜が傷付いただけみたい。明日から、普通に登校して大丈夫だって」
今の宝井はTシャツにゆったりとした半ズボンといった出で立ちで、きっと部屋着なのだろうと推測する。ズボンから伸びる脚は他の肌と同じくらい白く、その中で膝小僧だけがピンク色だった。
学校では顔色が悪く、オブジェのように静謐とした宝井。そんな彼女にも血が通っているのだと思うと、何故だかむず痒い気分になる。
白い肌を伝っていく血液。実際は数秒のことだったが、俺の目にはスローモーションのように映った。凝固してしまったそれは黒に近い色合いだったが、宝井の皮膚を流れていった瞬間は鮮やかな赤色をしていた。
あれが宝井の体を流れ、命そのものなのだ。当たり前のことを実感しただけなのに、何度も何度もその光景は俺の脳裏を掠めていく。以前、信也は俺のことを綺麗だと言ったけれど、俺は自分自身よりも宝井の血の方がよっぽど綺麗だと思う。
「──磐根君?」
宝井から訝しげに声をかけられ、俺の意識は急激に浮上する。そうだ、今は宝井と向かい合っているのだった。
「ごめん、考え事してた。何か話してたっけ」
「私はもう大丈夫って話はした。そこから、磐根君がボケッとし始めたから、しばらく沈黙。正直気まずかった」
それは全面的に俺が悪い。もう一度ごめん、と謝ると、宝井は軽く肩を竦めた。
「磐根君がぼんやりしてるのはいつものことだから、もう気にしてない。それよりも、磐根君が来るなんて意外だった」
「そうかな」
「こういうのはいつも先生が持ってくるから。仮に誰か持っていくか、なんて聞いたって、立候補する人なんていないでしょ。まさか磐根君、皆の前で挙手したりしてないよね?」
「してないよ、釘刺されてるんだから。宝井の机のプリントまとめてたら秋月が来て、そのまま流れで俺が持ってくことになった」
わざわざ頼み込んで持ってきた、などとは言えるはずもなく、俺はそれらしく事実を捏造した。明日、学校で秋月がべらべらと余計なことを喋らないことを祈るばかりだ。
宝井は特に疑う様子もなく、そう、と相槌を打った。四月よりも心を許されているのがわかって、少し嬉しくなる。
「あ、そうだ。宝井が抜けた後のことなんだけど」
出してもらった麦茶を一口飲んでから、俺は猫屋敷のタオルがなくなったらしいことを伝えた。結構な騒ぎだったから、明日何も知らずに登校して浮いてしまったら大変だ。
事の次第を聞き終えた宝井は、心底面倒臭そうな顔をして溜め息を吐く。前に、信也が猫屋敷に乗り換えたと判明した日の天神さんでも、こんな顔をしていた気がする。
「……里中君に飽きてきたんだろうね、あいつ。だから次の騒ぎを起こそうとしてる。本当にしょうもない」
「騒ぎって言っても、タオルがなくなったってだけだろ? 誰かが間違って持っていったとかじゃないか? 猫屋敷が故意でどうこうしてるとは思えないけど……」
「もしかしたら、本当に取り違えかもしれないね。でも、それだけじゃ済まないのは確かだよ。あいつは事を大きくして場を引っ掻き回すのが好きだから、きっと今回もそうする。自分が騒動の中心にいないと気が済まない
前々から思っていたことではあるけれど、猫屋敷が絡むと宝井は一気に言葉が刺々しくなる。刺々しいのは俺に対してもだけど、なんだろう、猫屋敷が相手になると容赦がない。他人に興味がなさそうな宝井ではあるが、猫屋敷のことはそこまで嫌いということなのか。
大野とのあれこれに関しては猫屋敷の悪意が垣間見えていたが、今回はどうなるのだろう。単なる被害者のようにも見えるから、宝井のように絶対に何か仕出かす、と決め付けるのは性急な気もする。
それよりも、俺としては宝井の方が心配だ。特に彼女が怪我した後のクラスメートの反応は、到底納得できるものではない。
「猫屋敷のことはともかく、さ。俺は、あいつのタオルがなくなったことよりも、宝井が怪我したことの方が
幾分か声を低くして切り出すと、宝井は何度か瞬きをした。最近は長い前髪の向こうにある目の動きも、少しは見分けられるようになった。
「私のことは気にしなくていいよ。あんなのいつものことだし。いちいち指摘してたらきりないって」
「宝井が良くても、俺は見過ごせないんだ。クラスメートが目の前で怪我してるのに、笑って囃し立てて、心配のひとつもしないで……そんなの間違ってる。今までそういうことに気付けなかった俺もバカだよ。宝井はもっと怒っていいんじゃないか」
「怒る……」
首をかしげ、宝井が思案する。数秒間考えて、思い当たる節でもあったのか、あ、と小さく声を上げた。
「ボール。ちゃんと回して欲しかった」
「……ボール?」
「うん。届くかわからなかったけど、私が一番近くにいたから取らなくちゃって思って、それでああなったんだけど……。皆、私のヘマに気を取られて、ボールなんてそっちのけだったじゃん。下手くそだけど、それでも取れなくもない位置に上げたんだから、せめて相手に点決められるまでは試合を続けて欲しかったなあ。……思い出したら腹立ってきた。皆真面目にやる気あるの?」
宝井の口がへの字になる。不満がぶり返してきたのか、猫屋敷に対する刺とはまた違った、少し乱暴な言葉遣いに変わる。
「大体、昼休みに遊ぶならまだしも、一応授業なんだから、基本的なルールくらいは把握しといて欲しいよね。なんで四回も五回もボール触って当たり前みたいになってるんだよ、三回で決めろよ。バレー部だっているんだから、そこのところ気にならないの? って感じ。楽しければなんでもいいんだね、ガキみたい。実際ガキなんだろうけど」
「めちゃくちゃ言うなあ……」
「下手くそは正論言う権利もないってこと?」
「いや、そういう訳では……」
「冗談。磐根君に当たったって仕方ないよね。次、私が顔面レシーブしても、こっちのことなんて気にしないで試合続けてね」
「……まあ、頑張るよ」
できることならもう宝井には怪我して欲しくないけれど、白眼視されることは確実なので当たり障りのない返答を選んでおく。二回も顔に怪我を負うなんてこと、あっちゃいけない。
「それより、磐根君。磐根君って、オープンスクールとか行く予定って立ててる?」
自分の分の麦茶を
「今のところは特に決めてない。第一志望の学校がやるってなったら、行こうとは思ってるけど」
「私立は?」
「入試だけでもそこそこかかるからなあ……。家に迷惑かけたくないし、よっぽど成績落ちるとかなければ見送る予定」
何気ないつもりで答えたはずだが、宝井は目をまん丸にさせた。本気、と問う声には困惑の色がありありと浮かんでいる。
「じゃあ、現状は滑り止めなしで受験しようとしてるってこと?」
「そうだよ。それがどうかしたか?」
「どうかしてるのはそっちだよ! そんなに受かる自信があるんだ。私だったら、磐根君と同じくらい頭が良くても滑り止めを捨てるようなことはしないけどな」
「まあ、なるようになるだろ。それで、宝井はどうするんだ? オープンスクール」
「何校か見に行く予定。行くかどうかはわからないけど、仙台の私立も覗いてみようかなって思ってる。通学定期ならバス代もそこそこだし、大学受験するってなったら仙台の学校の方が色々有利だから。勿論、第一志望は公立校だけどね。私立に行くことになったら、父親がうるさそうだし」
「第一志望はどこなんだ?」
「川向こうだよ。家から一番近いし、多分うちのクラスからはそんなに行かないと思うから」
宝井の言うとおり、川向こうの学校を選ぶ生徒は少ない。これはうちの学年に限ったことではなく、どの世代も満遍なく、といった感じだ。距離は近いけれど誰でも入れる程レベルが低い訳ではないし、かといって高すぎることもない。相当成績に自信があったり、本気で国公立を目指している奴は山形市内の進学校に進む。言っては悪いが中途半端なのだ。設備が古いことも、不人気の一因らしい。
そういえば、仙台を歩いている時、宝井はブレザーに憧れているようだった。偶然かもしれないが、川向こうの学校はブレザーだ。何もかも中途半端で古くさいと言われている高校ではあるが、制服に関する不満はあまり聞いたことがない。度々見かけたこともあるから、どのようなデザインか俺でも知っている──少なくとも、俺の目にはダサく映らなかった。
登下校のしやすさや制服は置いておいて、宝井ならもっとレベルの高い高校に行けるのではないか。そんな思いが込み上げたが、喉元まで出かかったところで我慢する。宝井は自己評価が低い。悪いように受け取られるのは、俺の本意じゃない。
「良いところ、見付けられるといいな」
自分としては良くも悪くも普通の感想だが、宝井にとってはそうでもないらしい。むっとした顔で軽く睨まれる。
「他人事みたいに言ってくれるね。磐根君だって立場は同じでしょ」
「だって、あんまり興味ないから……」
「……同じこと、私が言ったら絶対に非難轟々だよ。磐根君なら許されるかもしれないけど、私は皆みたいに器大きくないから。発言には気を付けてよね」
「わかった、気を付けるよ」
こうやって都度注意してくれる宝井はまめというか、律儀だ。根っこの部分は、きっとあのクラスの誰よりも真面目なんだろうと思う。皮肉っぽいところさえなければ、もう少し好印象を抱いてもらえるかもしれないのに、なんだかもったいない。
その後は授業に関する伝言を伝えて、出してもらった麦茶を飲み干した。あまり長居するのも悪いし、また雨が降り出したら良くないから、そろそろ退出させてもらうこととしよう。
「じゃあ、宝井、体に気を付けて。くれぐれも無理はするなよ」
「無理する程体育に熱心じゃないから大丈夫」
「そうは言うけどさ、練習はしてるだろ? これから暑くなるし、部活も再開する。バテないように、体調管理はしっかりしといた方がいいよ」
「……それはそうだね。うん、善処する」
多かれ少なかれ参っているのか、思ったよりも素直な返事が寄越される。玄関口まで送ってくれた宝井の顔は、やはりいつもより白く見えた。
「それじゃ、学校で。またね、磐根君」
ひらひらと宝井が手を振る。数ヶ月前までは、あり得なかった光景だ。
再び宝井の家を訪れる日が来るかはともかく、この関係はできるだけ維持していたい。そんな希望を胸にしまい、俺は行きよりも乾いた道を走った。
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