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 猫屋敷のタオルが出てきて、宝井が犯人扱いされ始めてから、天神さんで彼女の姿を見かけることはなかった。

 隣の席とはいえど、表向きには関わりがないことになっている俺たちは、学校で言葉を交わすことはない。その上色々と面倒なことになっているから、宝井はふらっとどこかに行ってしまうことが多い。わざわざ追いかけるのは悪趣味だと思うけど、こうも話していないと段々不安になってくる。

 そんな中で、俺の県大会は終わった。結果は4位、入賞には届かなかったが、自己ベストを更新したので顧問にはこの調子でいけば新人戦も安泰だと褒められた。来年こそは東北大会に、と念押しのように言われ、げんなりしたのは記憶に新しい。

 こうして、俺も少し遅れて日常的な部活動に戻った訳だが……正直、部活がどうこうよりも、宝井のことが気にかかって仕方なかった。上の空でいた方が、いい記録が出るのかもしれない。

 その日は部活が終わって、教室に忘れ物を取りに行くところだった。県大会があるからと免除されていた課題を、すっかり失念していたのだ。別に締切がすぐという訳ではないけど、できる時に済ませておきたい。

 人気のない校舎を歩いていると、宝井と話すきっかけができた日のことを思い出す。大野の悲しそうな顔、猫屋敷と楽しげに下校していた信也の姿──数ヶ月前のことなのに、随分と遠い出来事のように感じられる。

 この数ヶ月で、俺の周辺は大きく変わってしまったように思う。生活の中に宝井が入ってきたことが大きいけど、彼女との関わりを通して、見える景色が急激に変化した。同時に、俺の心にわだかまっていた言い様もないもやもやとした気持ちも、具体性を帯びてきた気がする。

 多分、俺は大人になりゆく過程が不快でたまらないのだ。無邪気なまま、俗なことに浸かっていく同級生を見ていられない。

 でも、宝井にはそういった気持ち悪さを感じない。宝井は自分の望むことを望むままに、損得を気にすることなく追い求めている。それは子供のように純粋で透き通ったものに見えるけど、少なくとも宝井は趣味の範囲で他人に迷惑をかけることはない。守るべきルールを律儀に守り、人として備える誠実さをかなぐり捨てずに歩みを進めている。

 それはきっと──誰にでもできることではないはずだ。


「──あ、」


 がらり、と教室の扉を開けると、中で机が床を擦る音がした。直後に、椅子が大きな音を立てて倒れる。

 教室にいたであろう人物は、ひどく驚いた顔で俺を見つめていた。赤々とした西日の差し込む窓を背にした、小柄なシルエット。沈黙する数秒間が、やけに長く感じられた。


「──宝井」


 別に、何ヶ月、何年も会えていなかった訳じゃない。それでも、俺は宝井と真正面から向き合えたことが、この上なく嬉しかった。

 入ってきたのが俺だとわかったのか、宝井が息を吐き出す。ぎこちない動きで倒れた椅子を直す宝井に、俺は心持ち早足で近付いた。


「お疲れ、宝井。この時間に教室にいるなんて珍しいな」

「え、あ……」


 いつもと同じように話しかけた……つもりだ。勿論、久しぶりの対面だったし、場所が天神さんじゃないから、多少の緊張は伝わってしまっただろう。

 それでも、宝井がわかりやすく戸惑ったのは何となく腑に落ちなかった。いつもなら、俺に対して物怖じなんてしないのに……一体どうしたんだろう。

 首をかしげたい俺を前に、宝井は怯えたように周りを見渡した。そして、俺以外がいないことを確認し終わったのか、少し表情を和らげてから小声で答える。


「……委員会の仕事、やらなきゃいけないから。ベランダの花壇、いじってた。私がやらなかったら、駄目になっちゃうだろうし……」

「ああ、そういえば宝井って美化委員だったっけ」


 あまり気にしてこなかったが、新学期に多数決で委員会を決めた時、宝井はじゃんけんに負けて美化委員になっていた。同じくあぶれた広沢が、うげー、と大袈裟にリアクションしていたっけ。

 当然ながら広沢が真面目に委員会活動に臨む訳もないので、残された宝井が二人分の作業をしているようだ。今、眞瀬北中では全学年でグリーンカーテンを実施しており、ベランダでアサガオを栽培している。宝井は、その花壇の手入れをしていたらしい。教室内にいるところから察するに、もう帰るところなのだろう。

 その宝井はというと、いつも──二人きりで会う時──よりも、だいぶとしおらしく見えた。やっぱり、犯人扱いされているのが苦しいのだろうか。そっと顔を覗き込もうとするが、宝井は後ずさって俺の接近を許さない。


「あの、さ。ここ、学校なんだけど……」


 そして、今にも消え入りそうな、授業中みたいな声でそう指摘した。

 ぱちり、俺は一度瞬きする。たしかにそうだ、ここは学校で、俺たちの教室で……二人しか入れないという制限は、ない。

 そうか、と俺は察する。宝井がおとなしかったのは、俺たち以外の誰かが入り込んでもおかしくない場所にいるからか。


「わかってる。けど、俺は気にしない」


 今までは、宝井が嫌がるからと、ただの一クラスメートに徹していた。だが、いつまでもそうしているのは居心地が悪かったし……何より、宝井の友人という立ち位置を否定したくはない。

 長い前髪の向こう側で、宝井が目を見開くのがわかった。唇が震え、何かを訴えようと動く。──が、もともと用意していた言葉は表に出すべきではないと判断されたのだろうか。口をつぐんでから、宝井はぼそぼそと言った。


「……磐根君は気にしなくても、周りはきっと気にするよ。ありもしないことを言われるかもしれない。ただでさえ、私は疑われてるんだから……」

「俺は疑ってないよ。宝井がやった訳じゃないんだろ」


 気持ち語調を強めると、宝井は無言でうなずいた。躊躇いのない反応だった。

 俺は宝井の友人だ。彼女がやっていないと主張するならば、その言葉を信じるのが筋だろう。

 疑わしげに俺を見上げる宝井を、真っ直ぐに見据える。いつもは、宝井に押されてこちらから目をそらしてしまうことが多いけれど……今回は、絶対逃げるものか。


「……もう、帰るから。誰に何を言われても、私は責任取らないからね」


 先に視線を外したのは宝井だった。ふいと顔を背け、投げやりにそう言ってから、鞄を掴んで俺の横を通り過ぎてしまう。逃げるような足取りだった。

 宝井がその場から立ち去るという選択肢を取ったことに対して、疑問はなかった。そうするのが一番手っ取り早かっただろう。

 でも──できることなら、俺を味方だと認識して欲しかった。信じると言った俺のことを、頼ってくれたらどれだけ良かったか。

 宝井にとって、俺とはどういう存在だろう。そんなにも、俺は頼りないだろうか。たしかに、宝井のようにものを考えることはできないかもしれないけれど、それでも……何もできない訳じゃない。

 はあ、と息を吐き出して、机の中からワークを取り出そう──としたところで、爪先に何かが当たった。身を屈めて見遣った先には、文庫本程度の大きさをしたノートがある。──宝井が、よく書き物をしているノートだ。

 とりあえず落ちたままというのは良くないので、俺はノートを拾い上げた。そこから宝井の机に入れてやるのが無難なんだろうけど……どうしても、好奇心が迫って仕方ない。宝井は、いつもこのノートに何を書き付けているんだろう?

 悪いとは思いながらも、俺はノートを開いてしまった。宝井の丸い字が、ページいっぱいに記されている──日付はなく、ただ思い付いたことを書いているだけのようだけど、単なるメモにしては不思議と惹きつける文章だった。


『ノーメンちゃん。私の新しいあだ名らしい。この前に見た、能のビデオから付けられたんだろう。安直。ばかみたい』


 宝井は文章の中でも宝井だ。いつもの仏頂面が目に浮かぶ──不機嫌そうな顔で、抑揚に欠けた声で、きっと文句を言うだろう。

 やっぱり、宝井は嫌だったのだ。大して親しくもなく、ましてや心ない言葉で馬鹿にされて、勝手にあだ名を決められることが。

 ページをめくる。余白が嫌いなのか、次のページもびっしりと文字で埋め尽くされていた。


『新学期。新しい席が決まった。誰の近くでも嬉しくない。この教室は、空気が薄いみたいだ。どこに行っても息苦しい。三年間、ずっと私は吸える空気を探しながら過ごしてゆかなければならないのだろう』


 呉井璃左衛門に関するメモもいくつか見受けられたけど、それよりも俺は宝井がこの教室で感じていることの方が気になった。彼女の筆跡は落ち着いているが、纏う空気はいずれもネガティブなものだ。今年の四月に決められた席順も、宝井に希望を与えてくれるものではなかったらしい。


『どうして、茜ヶ淵も、児備嶋も、私のことをバカにしていいと、当然のように思っているのだろう。私は、あなたたちが授業で正しい答えを間違えたり、私よりもテストの点数が低かったりしても、面と向かってバカにしないのに。この人たちは、私のことをなんだと思っているんだろう』

『自分が他のみんなと同じ人間なのか、時々不安に思う。同じ言葉を話していても、話が通じないことがあるから。本当は私だけが宇宙人で、みんなとは薄い壁のようなもので分けられているとしたら……そうだったら、どれだけいいか』

『私の耳はおかしいのかもしれない。この教室にいると、みんなの話し声がうるさくてがまんできない。キンキンして、頭が痛くなってくる。みんな、気にならないんだろうか。猪上や元木の、かん高い声が。ちょっと顔をしかめるだけで終わるものなの? 私の気にしすぎなのかな。昼休みの教室に居続けていると、頭が割れてしまうんじゃないかって思う』

『ふつうになりたい。みんなと同じものの感じ方や考え方ができるようになりたい。そうすれば、少しは楽になれるかな?』

『わかっている。ふつうにはなれない。みんなと同じようになりたいと思いながらも、私はああいう風にはなりたくないとも思っている。何がおもしろいのかわからない話でバカみたいにさわいで、恥ずかしがることもなく下品な話をして、人の個人的なスペースに土足で入り込むあの人たちには、なりたくない。でも、この息苦しさがなくなることを考えたら、完全に否定はできない。私はだめ人間だ。自分をしっかり持てていない』


 あっと、声が出そうになった。次に目を移した行で、俺の名前が出てきたからだ。


『となりの席の、磐根大地君。よくわからない人。児備嶋の人たちの中で、何も考えずにぼうっと突っ立って時間が過ぎるのを待っているだけのように見えるけど、周りから何か言われることはない。当然のように、友達のくくりにいる。ずるい人だ。私みたいに、あら探しされることなんてなかったんだろう』


 ずるい、と評されたことよりも、書き慣れていないからか不格好に大きい磐根の「磐」の字の方が、俺にとっては印象的だった。多分、俺が隣の席にならなかったら、中学校では書くことのなかった字かもしれない。そう思うと、なんだか誇らしくなる。

 いつまでも宝井の筆跡を眺めている訳にはいかない。本当なら、今すぐにでもノートを閉じて、何事もなかったかのように片付けるのが一番いいんだろう。

 でも、俺は気になって仕方がない。宝井は、この後も俺のことを書いてくれているだろうか? 唇を舐めて、壊れ物に触るみたいに、そっとページをめくっていく。


『磐根君は親切だ。私にも、他の人にも。誰にだって同じように親切で、いい人と呼ばれるべきことをする。お友達の里中君なんかは、私のことをノーメンちゃんって呼んで、バカにしてるのに。私のことだけじゃない、クラスのみんなのことに、まるで興味がないみたい。ふしぎな人だ。どうして、溶け込んでいられるんだろう?』

『磐根君と隣になってから、鷲宮がうるさい。前以上に、私のあら探しをしてくるようになった。磐根君の前で、私のことを叱りたいんだろうか? だとしたら、すごく迷惑』

『気のせいかもしれないけど、磐根君は時々私のことをぼんやり見ている。何でもないように、目で追われることが多い。私の何が気にかかるんだろう。必要なことしか話しかけられないのに。いつか、磐根君にも陰口を言われたり、バカにされたりする日が来るのかな。それは、ちょっといやだ』


 そんな日は来ない。思わず口に出してしまいそうだったけど、俺はすんでのところで堪えた。歯を食いしばりながら目線をずらすと、隣のページの内容は俺と接触した日のことだった。


『児備嶋の学区内にある神社で、磐根君と会った。何かの罰ゲームで待ち伏せしてたのかと思ったけど、本当にたまたまみたいだった。外で会う磐根君は、教室で見るよりも変だった。変っていうか、ちゃんと人間なんだって思った。いつも隣にいる磐根君は、欠けたところなんてひとつもなくて、いつでもみんなから正しいと思われることをしているから。もしかしたら、よくできたロボットなんじゃないかって思うこともある。だから、つっかえたり、言うことを選んでいる磐根君を見られて、少し安心した。今日のことを、誰にも話していないといいな』


 ロボット。紙の表面に記された字を眺めながら、俺はふと片手を頬に当てる。

 部活終わりの肌は汗で湿っていて、変わらずに生ぬるかった。ちゃんとした、人間の肌だ。

 ロボット、なんて面と向かって言われたことはないけど……功一や信也だけでなく、俺の周りの人たちは時折俺と距離を取る。優等生とか、お利口とか……信也いわく、『キレー』だからと、やんわり拒絶する。

 別に、誰かに良く見られようと思って振る舞っている訳じゃない。俺にとっては当たり前のことで、人としてすべきだと思ったから行動に移しただけなのに、皆はそんな俺をそっと線引きする。あなたは真面目だから、とか、委員長だから、とか言って。

 宝井にも、温度の通っていない──真面目でお利口で、線引きすべき人だと思われてたのなら少し悲しい。でもそれ以上に、宝井が認識を改めて、俺のことを普通の人のように見てくれているという事実が嬉しかった。俺が正しいと思ってしていたことが、宝井にとっても同じなんだとわかったような気がして。

 一度、気を取り直すように唾を飲み込む。未だうるさい心臓の音を無視しながら、俺は続きを読んだ──とはいえ、すべての記述を丁寧に読むなんてできるはずもなく、目線は自然と俺の名前を探してしまう。


『まったくいっしょって訳じゃないけど、磐根君は私の考えに共感してくれる。もしかして、彼もこの教室が息苦しいんだろうか? あんなに恵まれていて、みんなに認められている人が? ちょっと信じられない』

『びっくりするくらい、磐根君は私のことを区別しない。こいつは下に見てもいいんだって、みんな無意識のうちに線を引くものだと思っていたのに、磐根君はまるで他のクラスメートと同じみたいに扱う。こんな人、はじめてだ。どう反応したらいいのかわからない。あんまり冷たくしたら悪いような気がしてきた』

『磐根君に進路のことを聞いた。きっと、彼は私とは違う高校に進学するんだろう。それはわかりきっているし、無理して同じ高校に行こうとは思わない。でも、今よりももっと広い世界に行ったら、磐根君みたいな考え方の人が多くなるのかな? そうしたら、私も少しは生きやすくなる?』

『ずっと、私が私のままでいられる居場所は見付からないと思っていた。本当の意味で私の味方になってくれる人もいないんだって。もう、なお兄みたいな人には会えないって思ってたけど、もしかたらって期待してしまう。ずっとがまんしてばかりじゃなくてもいいんじゃないかって、見えない何かに甘えたくなる。磐根君と関わるようになってから、なんだか変だ。私、こんなに浮かれた考え方ばかりしていたっけ?』

『最近は、いやなことがあってもがまんができる。これがふつうなんだってわかってるけど、それでも少しは人間をやれているんだって思ったら、ちょっとだけどほっとする。磐根君には、私が人間に見えていたらいいな』


 宝井は人間だ。誰が、何と言おうとも。

 ノートを置く。吐き出した息は長かったが、それでも心の内にあるもの全てを追い出すことはできなかった。

 つんと取り澄ました顔の宝井を思い出す。教室で孤立し、ぽつねんと佇み、しかし悲しみや寂しさを決して表に出そうとしない、意固地な少女の姿を。

 宝井は、何を思って日々を過ごしていたのだろう。固く張り詰めた無表情の奥にあるのが、柔らかくて脆くて、見えない答えをずっと探しながら虚空に向かって問いかけ続ける、ただの女の子なんだってことに──どうして、俺は気付けずにいたんだろう?

 ここに、宝井がいたら。あり得ないことだけど、俺は『もしも』を思わずにはいられない。仮に、宝井が戻ってきたのだとして──俺は、彼女に正解を与えられるだろうか。ずっと思い悩んできた彼女に報いてやる良い方法は、一体どこにある?

 きっと、天神さんに宝井はいないだろう。俺たちが二人きりで会えるのは、あそこだけ。だから、次に会える日ができるだけ近ければ良いと心から思う。いずれ来るその時までに、俺は宝井に応えられる自分でいなければ。

 ふと顔を上げれば、教室はすっかり夕日に浸食されている。黒く伸びた俺の影が人間のそれに相応しいものか……後にも先にも、わからない。宝井と同じであれば、何だって良かった。

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眩む、残照 硯哀爾 @Southerndwarf

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