第八章 人面の下、青を喪うモラトリアム
1
猫屋敷のタオルが見付かった。何でも、体育館の一階──道場の出入り口に繋がるところのゴミ捨て場に捨てられていたらしい。
功一のようにあけすけな言い方をするつもりはないけれど、たかだかなくし物一つが見付かっただけだというのに、クラスは朝からざわついていた。半日経った昼休みの今も、児備嶋と茜ヶ淵に関係なく、クラスメートの大半──特に女子──が噂話に興じている。
「なあ、聞いたか? 例のタオルを見付けたのって、ノーメンちゃんらしいぜ」
そして懲りることなく野次馬根性丸出しな幼馴染みこと信也は、不自然過ぎるくらいの小声で俺に耳打ちした。耳元が嫌にくすぐったい。功一が同じ事をやられたら、十中八九顔をしかめてしっしと追い払おうとしていることだろう。
信也は俺の新鮮な反応を期待しているみたいだが、朝の時点でその疑惑は持ち上がっていた。担任の木下は誰が見付けたかをはっきりと明言はしなかったが、道場付近を通りかかるとしたら剣道部以外にそうそういないだろう。眞瀬北中で武道系の部活と言えば、剣道部の他にはない。
その宝井はというと、今日も姿をくらましている。猫屋敷いわく、心の相談室に行っているというけれど……本当のことなんだろうか。単に猫屋敷が宝井のイメージを悪くさせたいだけかもしれない。だって宝井はちゃんと自分を持っていて、揺らぐことなんてなさそうだから。
「あれって絶対自作自演だよなー。ノーメンちゃん、姫魅にも愛想悪かったし。タオルがなくなった日も早退してたしさ、これはもうノーメンちゃんで決まりじゃね? なあ、功一」
俺に無視された信也ではあるが、特段気にした様子はない。それどころか、この場にいないのを良いことに正直言って気分の悪い持論を展開し始めた。
宝井の愛想が悪いのは猫屋敷に限ったことじゃないだろ──と反論したいのも山々だったが、うっかり口に出そうものなら俺と宝井の関係を疑われてしまう。しかも相手はお調子者で口の軽い信也だ。宝井は確実に嫌がるだろう。
大変不本意なことに、宝井を犯人だと思っているのは信也だけではないらしい。猪上たちも、宝井が猫屋敷のタオルを盗んで捨てたと見ているようだ。彼女たちの声はやたらと大きいから、盗み聞きする気がなくても耳に入る。
ここで、功一が気だるそうに顔を上げた。連立方程式に苦戦していた彼にとっては、鬱陶しくも運良く現れた逃げ道なのだろう。くるくると鉛筆を回しながら答える。
「どうでもいい。……けど、宝井がやったってのを見た奴がいるんなら、あいつが犯人ってことなんじゃねえの」
「……は? 目撃者がいるのか?」
できる限り他人事を装っていたかったけれど、ここで功一が放った言葉はオレを振り向かせるのに十分な力を持っていた。
宝井がタオルを捨てるところを見た──そう、告げ口した奴がいたのか。
タオルを見付けたのが宝井という話は既に広がっていて、そこから彼女が犯人だと決めつけられているものかと思っていたが……思い込みで物事を考えすぎるのも良くないということか。俺は密かに歯噛みする。
案の定、信也は待ってましたと言わんばかりの顔をした。野次馬を増やしたいのか、わかりやすく身を乗り出してくる。
「やっぱり、大地も気になってるんじゃねえか。つーか知らなかったんだな、麗那とか、朝から騒いでたのに」
「お前みたいに首突っ込んでないからな。それで、誰が現場を見たんだよ」
「そこまではわかんねーよ。わかってても、おおっぴらにはしないだろ。まあでも、ノーメンちゃんならやりそうって感じ、あったもんなあ」
「……それはお前の勝手なイメージだろ。それだったら、第一発見者が宝井だって話はどこから出てきたんだ?」
相変わらず宝井を小馬鹿にする信也には、幼馴染みながら苛立ちが募る。こいつはクラスメートの、大して関わったこともない女子のことをなんだと思っているんだろう。彼女をバカにしていい理由なんて、ひとつもないのに。
「……あいつ、最近は朝に自主練してるから。剣道部の連中なら、あの時間帯に道場に入ってるのが宝井だってわかる」
口を開いたのは、意外なことに功一だった。俺が呆気に取られている間に、ふわあ、とひとつあくびをして、そのまま机に突っ伏してしまう。課題よりも、眠気の方が優先されたようだ。
真っ先に頭の中に浮かんだのは、鷲宮の顔だ。つんと澄ました表情の多い彼女は、ここのところ落ち込んでばかりいる。この前いっしょに帰った時だって、どうしてかずっと浮かない顔をしていた。
鷲宮が教師に、宝井がやったのだと告げ口する様子はすぐに想像できた。……が、いくらなんでも鷲宮に失礼だと思いとどまる。いくら何でも、あの潔癖で生真面目な鷲宮が教師たちの前でいけしゃあしゃあと嘘を吐き、宝井を犯人に仕立て上げるような真似はしないだろう。
宝井の言葉を鵜呑みにしたい訳じゃないが、こうなってくると猫屋敷の茶番と考える方がましな気がしてきた。あいつが何を考えているのかはわからないけど、クラスメートに対して躊躇いなく悪意を振りかざせる人であることは確かだ。この前だって、意図的に大野を傷付けて、自分は被害者とでも言うように振る舞っていた。俺は猫屋敷のことを信用できない。
「そういえば信也、猫屋敷には何か声かけてやったのか? 彼女なんだろ」
だからこそ、俺は信也が猫屋敷と付き合っていることが理解できない。いくら信也でも、関わったら面倒なことになると思い至りそうなものなのに……いくら大野に飽きていたからって、自分の立場が悪くなるような乗り換え方をするだろうか。
現に、信也は猫屋敷に押されることが多い。彼女の意に反することをすれば、すぐに悪者扱いされるのだという。今の信也は窮屈そうだ。軽薄な振る舞いは慎んで欲しいけれど、幼馴染みが気落ちする姿を見るのは気分の良いものではない。
静かに寝息を立てる功一を眺めながら、信也はひとつ溜め息を吐いた。妙に疲れた仕草だった。
「フォローしようと努力はしたよ。けど、何しても無駄だ。あいつ、必要な時以外は俺のこと寄せ付けないからさ。茜ヶ淵の女子どもは、児備嶋の連中を特に避けてるみたいだし……下手なこと言えば、俺がターゲットになる。触らぬ神に祟りなしってやつだよ」
「お前……猫屋敷のこと、心配じゃないのか? 好きだから付き合ってるんだよな?」
まるで猫屋敷を疫病神みたいに言う。ますます、信也が猫屋敷と付き合おうと思った理由がわからない。
信也はきょろきょろと辺りを見回してから、そっと俺の方に顔を寄せた。以前の、人目を気にせずに大きな声で喋る姿とは似ても似つかない。
「そりゃ、初めはラッキーだと思ったよ。あんまり交流のない茜ヶ淵の女子だけど、あいつは美人だし、頭もいい。彼女にできたら、勝ち組だろ。だから、あっちから話しかけてきて、仲良くなりたいって言われたら、舞い上がるしかなかったよ。ちょうどハルもうざかったし、ここらで乗り換えるのがいいかなって思った。タイミングが良かったんだ」
「そんな理由で、」
大野はないがしろにされたのか。猫屋敷に傷付けられ、ありもしない罪を着せられた──タイミングが良かったから。
そんなの、納得できるはずがない。しかし、俺の苛立ちに気付いていないのか、信也は何でもないような顔をして続ける。
「告ったらオッケーもらえて、思い通りだなって感じだった。付き合い初めの頃は、姫魅もフツーに可愛かったしな。……けど、その後はおかしくなってくばかりだった。姫魅が許さなきゃカップルらしいことなんてひとつもできなかったし、俺の意見はキレイに無視された……。わかるか、大地。姫魅はさ、俺のこと、本気で彼氏だとは思ってないんだ。自分の都合のいいように使える、便利なアイテムか何かの扱いだよ」
「アイテムって、お前……」
「姫魅は、多分恋愛なんかに……いや、個人的な関わりに興味ないんだろうな。あいつが見てるのは全体だ。いつだってあいつは中心にいて、安全な位置から全体を眺めてる。見世物なんだよ、姫魅にとっての俺たちって。今回のことだって、きっと」
「──信也君、何の話をしてるの?」
立て板に水を流すように話し続けていた信也だったが、後方からかかった声がそれを遮った。
訛りを含んだ、高い声。信也の顔が一気に強張り、機械じかけのおもちゃを思わせる動きで振り返る。
「ひ、み……。どうしたんだよ、いきなり……」
「ああ、びっくりさせちゃった? なんだか真剣におしゃべりしてるみたいだっけから、何の話をしてるのか気になっちゃって。私の名前も聞こえたし」
俺たちの背後に立っていたのは、やはり猫屋敷姫魅だった。穏やかに微笑みながら、狼狽える信也を見つめている──何もかも、お見通しだとでも言うように。
「いやあ、姫魅が気の毒だって話してたんだよ。大事な持ち物を盗まれるばかりか、捨てられてるなんて……犯人、早く見付かって欲しいよなって。なあ、大地?」
明らかに声を上擦らせながら、信也はこちらに視線を向けてくる。助けてくれ、とその眼差しが切実に訴えていた。
なるほど、信也はどうしたって猫屋敷には頭が上がらないようだ。自業自得だとは思いつつも、その様子があまりにもかわいそうだったので、幼馴染みのよしみで助け船を出してやることにする。
俺がうなずくと、猫屋敷は何度か瞬きをした。その視線はわかりやすくびくびくしている信也を通り過ぎて、ゆっくりと俺の方に向かう。
「大地君も、私のこと心配してくれてたの? 優しいんだね」
「別に……当たり前のことだよ。クラスメートなんだから」
「ふふっ、んだら大地君は、誰が犯人だと思う?」
猫屋敷は微笑んでいる。信也が言うところの、キレーで、お手本みたいな表情。
猫屋敷は、きっと周りが思っているよりも傷付いてはいない。信也の推測は、大方当たっているのかもしれない。
彼女が重要視しているのは全体──その真ん中で、最も安全な位置で、猫屋敷は眺めている。俺たちが一喜一憂して、無様に動き回る様を。見世物を鑑賞するように、高みから楽しんでいるのだろう。誰が傷付こうとも構わずに。
「……そんなの、何もわかってないうちは考えるだけ無駄だと思う。先生方が調べてくれてるんだから、今はそっとしとくべきだよ」
宝井の席を見ずに、俺は当たり障りのない答えを選ぶ。誰にも、怪しまれないように。
猫屋敷が、品定めするように俺を凝視した。──が、やがて諦めたように口を開く。
「大地君は真面目なんだずにゃあ。でも、心配してもらえて嬉しかったよ。じゃあね」
そのまま、まるで世間話でもしていたかのように、何ともない様子で猫屋敷は去って行った。悲しみや怒りを、全く感じさせない背中だ。
信也が安心しきった息を吐き出すのが聞こえる。今になって、宝井の予想は間違っていなかったのだと気付かされる──たしかに、信也はろくな目に遭っていない。
宝井が戻ってくるのは、昼休みぎりぎりであって欲しい。こんな雰囲気の教室には、長居して欲しくなかった。
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