4

 プール掃除は、その後何事もなく終了した。これで、来週から水泳の授業が始まるだろう。

 宝井は俺のタオルを持ち帰ったようだった。下駄箱にもロッカーにもそれらしきものはなく、念のため部活の後に教室へ戻ってみたが、求めていた痕跡はひとつも見当たらない。洗濯して返すつもりなのだろうか。だとしたら、やっぱり宝井は律儀だと思う。

 鞄を背負い直し、背筋を伸ばす。部活はもう終わっているし、あとは帰るだけだ。天神さんに寄ることも考えたけれど……あんなことがあってすぐに、宝井の顔を見るのは少し気まずい。

 くるりと振り返り──はたと動きを止める。誰もいないと思っていた扉の前に、ひとつの人影がある。


「……磐根、君」


 掠れた声で俺の名前を呼ぶ生徒──鷲宮は、ぎゅうと拳を握り込んだ。俺とかち合うとは思っていなかったのだろう──明らかに動揺した様子で、俺の名を呼んだ。

 あんなことがあったからか、鷲宮の顔色は悪い。ここ最近は覇気もない──宝井が理不尽に叱られることを思えば以前と同じ風に戻って欲しいとは思えないけど、それでもある程度の元気は取り戻して欲しいところだ。

 ゆっくりと目を合わせ、俺は一歩踏み込む。何を恐れたか、鷲宮の肩がぴくりと跳ねた。


「お疲れ、鷲宮。今、帰りか?」


 穏やかな口調を意識しながら切り出すと、鷲宮は僅かに表情を弛めた。掌を開き、こくりと小さくうなずく。


「忘れ物をして……取りに戻ったところ。磐根君は?」

「俺もこれから帰るところだよ」

「そう……」


 迷うように目線をさ迷わせ、鷲宮は改めて俺を見据える。きゅっと引き結ばれた唇が、彼女にしては躊躇いがちに開かれた。


「あの……あのね。もし良ければ、いっしょに帰らない? 途中までで大丈夫だから」

「俺と? 構わないけど……どうしていきなり」

「……今日は、何となく一人で帰りたくなくて。そこにちょうど磐根君がいたから」


 早口で言い放つと、鷲宮は足早にロッカーへと進む。その姿を目で追い、何やらノートを取り出すのを見届けてから──俺は答えを伝えることとする。


「いいよ。俺でいいなら」

「……!」


 こちらに振り返った鷲宮の目は、予想した以上に輝いていた。直前の会話がなければ、泣いているようにも見えたかもしれない。

 ノートを胸に抱き締め、鷲宮は素早く立ち上がる。そうして俺の隣に並び立ち、行きましょう、とでも言うように目配せしてくる。

 正直、俺は面白い話なんてできないし、鷲宮とはそこまで言葉を交わす仲ではない。俺にとっては、数あるクラスメートの一人でしかないのだ。だから鷲宮がわかりやすく喜んでいることが不思議でならなかったが──ここで、大野や信也の発言を思い出す。


 ──英里奈ね、いっちゃんのことが好きなんだよ。

 ──すっとぼけていられるのも今のうちだぞ、正直お前を前にした英里奈はわかりやすいからな。


 当時は大袈裟だとか、人をおちょくるのもいい加減にしろとも思ったけれど、こうして見るとあからさまに態度が違う。少なくとも、鷲宮は男子の前で無防備に目を輝かせるような人じゃない。

 もしかして、本当に。鷲宮は、俺に好意を抱いているのか?


 ──この際はっきり言うけど、磐根君って他人に興味ないよね?


 いつだったか、天神さんで宝井に白眼視された記憶が蘇った。あの時は否定したけど……でも、的を得た指摘だったと思う。

 別に、自分以外の人たちのことがどうでもいいって訳じゃない。信也や功一といった幼馴染みのことは大事だし、陸上部の同級生や後輩だって、多少は気に掛けている。

 ただ──俺は、彼らが余程のことをしていなければ、何をしていたって良いと思う。好きなことを、好きなようにすれば良い。さすがに信也のような軽薄な行動は見逃せないけど、それでも、大野と付き合うってなった時は嫌な気持ちにはならなかった。本当は、これまでの関係性に変化が生じることに対して、僅かな違和感を覚えたものだが──信也と大野が満足しているならいいかと、水に流すことができた。功一に関しても、剣道一筋で、県外の選手を追いかけることに感慨を抱くことはない。功一のモチベーションに繋がっているのなら良いことなのだと、ずっと受け流してきた。だって、自分に何かしらの感情を向けられた訳じゃないから。

 ずっと、俺は立ち位置に居続けてきた。過度に好かれることも、嫌われることもない。昔からの幼馴染みと、付かず離れずのクラスメートたち……彼らと過ごす、変化の少ない日々は、とても心地よかった。


「……ねえ、磐根君」


 昇降口までの道のり。階段を降りている最中に、鷲宮から控えめに呼ばれる。

 鷲宮はごみ箱に何かを捨てたいようだった。ビニール袋を持ってもどかしそうにしているのをしばらく眺めていたが、やがて彼女は袋をスポーツバッグにしまった。


「磐根君って……宝井さんのこと、どう思っているの?」


 鷲宮にとっては、一世一代の質問だったのだろう。緊張からか、瞼の端がひくひくと引きれている。

 まさか、宝井とのことを聞かれるなんて思いもしなかった。天神さんで定期的に会っていることが割れてしまったのかと不安になる──が、すぐに心当たりを見付けた。今日のプール掃除の時のことだ。大方、俺が宝井を庇うような真似をしたことが気になっているのだろう。

 どう思っているか、という質問はなかなかに難しい。ありのままを伝える訳にはいかないというのもあるけれど、自分自身、宝井がどういった立ち位置にあるのかがわからないでいる。

 友達……というのも何だか違うような気がするし、かといってただのクラスメートではない。今まで誰にも言えなかったことを世間話のように話せて、新しい世界を見せてくれる──そんな存在に名称があるのなら、是非とも教えてもらいたい。


「どうって言われてもな。クラスメートで、たまたま隣の席になった女子ってだけじゃないか?」


 とりあえず、宝井からは釘を刺されているし、鷲宮を刺激したくはない。首をかしげながらそう答えると、鷲宮の眉間に皺が寄った。


「私には、磐根君が言うようには見えないのだけど」

「何がだ?」

「だから、宝井さんのこと。気のせいかもしれないけど、磐根君はあの人のことを特別扱いしているように見えるの」

「鷲宮に何の関係があるんだ? 剣道部に迷惑がかかるんだったら、俺も考えるけど」


 言っておいて何だが、さすがに無神経な発言だったと思う。見れば、鷲宮は僅かに目を見開いてから、むっと唇を結んでしまった。機嫌を損ねてしまったかと、少し不安になる。

 鷲宮は、俺の何がいいんだろう。こういうことを口にすると、信也どころか宝井にさえもドン引きされるけど、俺は本当にわからない。信也みたいに喋りが上手い訳でも、功一みたいに何かひとつ秀でるものがある訳でもない。背は平均より高いし、ハーフということもあって目鼻立ちは一般的な日本人と違うかもしれないが、相手はよく見知ったクラスメート、しかも鷲宮は小学校も同じだった。外見だけで好意を抱くような間柄でもないだろう。

 はっきり言って、俺は自分の性格というか、個性を把握できていない。信也やあいつと仲の良い奴からは優等生とか、いい子ちゃんとか言われるけど、要するにそれは個性に欠けるってことじゃないか。

 無個性で中途半端。そんな俺を好きになる余地なんて、果たしてあるんだろうか。俺だったら、外見がどうあっても、面白みのない奴よりも接していて楽しいとか、気が楽になる相手を選ぶ。


「……特別扱いなんてしてないよ。俺、宝井のことよく知らないし」


 頭の中で何度も言葉を選び、ようやっといい感じの返事を導き出す。鷲宮からはどう思われてもいいけど、宝井に睨まれるのは避けたい。

 実際、俺は宝井のことをよくわかっていない。わかっているのは、歴史とか地理、あとは文化に詳しいこと。文系科目が得意なこと。カレーが好きなこと。意外と律儀で、努力家なこと。黒目はただ真っ黒なんじゃなくて、近くで見てみるとコーヒーみたいな色をしていること。それから、俺よりもずっと強くて、しっかりと地に足をつけていること。

 同じ空間を共有している同級生たちは、きっと知らないだろう。でも、これは宝井のほんの一部分。宝井には、まだ見たことのない一面がたくさんあるにちがいない。だから、俺はまだまだ宝井のことを知らない──少なくとも、俺自身はそう認識している。


「でも、知らないからって好き勝手に言っていいってことはないと思う。猫屋敷にも言ったけど、俺は当たり前のことをしただけだ。特別なことなんて、何もないよ」


 外に出ると、まだ空はほんのり青かった。以前よりも日が長くなっているからか、時間の感覚がおかしくなりそうだ。

 横を歩く鷲宮は、無表情──を、頑張って張り付けているように見える。噛み締めた唇は白く変色していた。俺は血が流れないことをぼんやりと祈るしかできない。


「……特別なことはない、なんて。それなら、どうして……」


 それは単なる疑問というよりも、俺に対する何らかの抗議に聞こえた。もっと詳しく続けてくれれば俺も対応ができただろうが、鷲宮はそれきり口をつぐんでしまう。

 そのまま、俺たちは分かれ道まで黙って歩いた。鷲宮はずっと何か言いたげな顔をしていたけれど、どういう訳か一度も口を開いてはくれない。好かれているというよりも、これでは嫌われているような気分だ。

 天神さんの前を通った時、念のため宝井が来ていないか確認してみたが、本人はおろか自転車すらなかった。鷲宮と行動を共にしていたこともあってほっとしたのは事実だが、何となく物足りない気分だ。

 俺は、宝井と言葉を交わさなければ満足できなくなってしまったらしい。このもどかしさは何と表現すれば良いかわからなかったが、きっと信也や、不躾なクラスメートたちからしてみれば、『好き』という括りにまとめられてしまうのだろう。それは少し──いや、かなり嫌だから、まかり間違ってもこの胸の内を誰かに話すことはするまいと誓った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る