5
俺たちが仙台駅に到着したのは、ちょうど四時を回る頃合いだった。結構な時間を歩いてきたから、さすがの俺も両足の痛みを覚えずにはいられない。帰ったら念入りにマッサージしておかなければ、後に響くことはわかりきっていた。
「電車の時間、見てくるよ」
人でごった返すステンドグラス前でそう言うと、すっかり疲れきった様子の宝井はこくりとうなずいた。普段から口数は少ないけど、今回は相当参っているようだ。節約のしすぎも良くない。
時刻表を確認したところ、案の定バスで帰った方が早く着きそうだった。車で行けばそうかからないであろう距離でも、乗り換えが絡むとそうもいかない。
宝井のところに戻ろうと思い、ふと振り返る。人よりも高い身長は、待っている宝井を見つけるのに役立った。
気だるそうに佇む宝井は、視線を下に向けていた。その手には、携帯にしては小さめの何かが握られている。ちょうど片手に収まるくらいのサイズだし、遠目から紐のようなものが付いていることは確認できた。
あれは何だろう。疑問に思ったが、いつまでも観察しているのも良くないので、とりあえず置いておくことにする。
お待たせ、と声をかけると、宝井はそっとこちらを見上げた。いつの間にか、手に持っていたものはどこかにしまわれていた。
「いい時間の電車なさそうだし、バスで帰るよ。宝井はどうするんだ?」
「もうすぐ親が合流するからここにいろって。バスの時間、大丈夫?」
「五時までなさそうだから、俺もここで待ってていい?」
「悪くはないけど……なんで?」
疲労感は滲んでいるが、宝井の機嫌はそこまで悪くないように見える。最初に話した時よりは、かなり柔らかい対応になった。
宝井も、心を許してくれているのか。そう思うと、素直に嬉しかった。なかなか懐かない小動物が、少し慣れてくれた時の気分に近い。
「一人で歩き回るの、居心地悪くて。誰かと話してる方が楽なんだ」
ここでもっと宝井と話していたい、なんて正直にぬかそうものなら白眼視必至だが、俺もそれなりに接し方を学んでいる。なるべく自然に、何でもないような理由と口調を心掛ければ、宝井はそっか、と戸惑いがちながらも首肯してくれた。
「私は一人の方が楽だけど、皆同じって訳じゃないもんね。そういうこともあるか」
うんうんとうなずきながら自分に言い聞かせている宝井を見ると、申し訳ないが微笑ましく思えてしまう。それと同時に、他人のことを客観的に見ることができて、意見の異なる相手をある程度受け入れることもできる彼女が何故孤立しているのだろうという疑問にも囚われる。
宝井は悪い奴じゃない。今までの付き合いで、俺はそれを何となく理解しつつある。
たしかに、部活に対するやる気は鷲宮に負けるけど、宝井は宝井なりに努力している。誰かに害を加える訳でもないし、話せば『普通』なのは明白なのに、どうして宝井はクラスで浮いているんだろう。
「宝井の親って、どんな感じ?」
黙ったまま並んで立っているのは居心地が悪くて、俺は当たり障りのない質問を投げ掛ける。
今こちらに向かっているのであろう、宝井の家族。俺は学校にいる宝井しか見たことがないから、家の中にいる彼女を上手くイメージできない。教室や部活のように、寂しい思いをしていなければ良いのだが。
宝井は何度か目を瞬かせた。その後に、別に普通、と素っ気なく言う。
「母親に似てないっていうのは、よく言われる」
「じゃあ、宝井は父親似なのか?」
「不本意だけど、多分そう。顔も性格も、全然似てないって。だから法事とかはあんまり好きじゃない」
「法事が好きな奴の方が少ないと思うけど……」
素直に思ったことは、意図せずとも口から出るものだ。あっと気付いた時には宝井が唇を尖らせていたので、急いで目を逸らした。
今の話から察するに、宝井は父親に似ていることをあまり良く思っていないのだろう。ただのクラスメートである俺に話してくれるくらいだから、そこまで険悪な間柄ではないんだろうが……深く突っ込んだら宝井の機嫌を損ねそうな話題だ。これからはできるだけ避けるようにしよう。
「磐根君、スポーツヨガって行ったことある?」
新たな反省を更新していると、唐突に宝井が聞いてきた。慌てて顔を動かせば、宝井はそこまで不機嫌という訳ではなく、びっくりする程透明な目で俺を見上げていた。
「スポーツヨガ……初めて聞いた。普通のストレッチと何か違うのか?」
「うーん、大きな違いがあるって訳じゃないらしいけど……怪我を防ぐために柔軟性を鍛えたり、筋肉の機能を上げたり、あとはメンタルの安定を図る目的でやるみたい。母親がインストラクターやってるから、もしかしたら磐根君と面識あるかなって思ったの」
この様子だとなさそうだけど、と宝井はどこか安心したように続ける。
「たまに仙台の支店にも行くから、こっちでの用事も多くてね。自然と仙台で遊ぶのに慣れた、みたいなところはある」
「そうか、だから宝井は色々詳しいのか」
「詳しいって程じゃないよ。それに、大学生になったら皆仙台に行くんじゃない? この辺り、学校多いし」
「まだそんな先のことは考えられないよ。大学の前に、まず俺たちは高校受験だろ」
「それは言えてる。私も全然イメージ湧かない」
自分で言い出しといて何だけど、と宝井ははにかんだ。一重まぶたがきゅっと縮まって、三日月みたいな形になる。
高校進学か、と心の中で反芻し、ぼんやりと考える。宝井はどこの高校にするんだろう、と地味に気になった。
仙台ではどうだかわからないが、少なくとも地元では大体の中学生が公立高校を選ぶ。純粋に公立校の方が多いからだ。
俺は少し通いにくいけど、山形市の高校を受けようと思っている。春の二者面談では、今目指している高校よりもレベルが上、県内で一番の進学校でも良いんじゃないかと言われたが、どうも気風が合わないような気がしてやめておいた。
功一はできれば推薦で受験を早めに終わらせたいらしく、信也は俺と同じ高校にしたいのだそうだ。しかし信也の方は成績が伸び悩んでいるとかで、レベルを落として地元にある普通科の高校──位置的な関係から、眞瀬北中の生徒たちは川向こうの高校と呼ぶことが多い──か、私立の特進にした方が良いと言われたという。手厳しい功一からは、女遊びばかりしてるからだ、と正論を叩き込まれていたっけ。俺からも否定はできない。
「なあ、宝井は──」
高校、どうするつもりなんだ。
そう聞こうとした矢先に、宝井がぱっと顔を上げた。その目線の向こうには、こっちに向けて手を振る人影がある。
詠亜、と呼び掛けるその発音は、宝井にとって正しいものだ。学校ではなかなか呼ばれない、宝井の望む響き。
「あれは──」
「母親」
短く告げて、宝井は俺の側を離れる。結んでいない肩までの髪の毛が、ふわっと浮遊感を伴った。
「お待たせ。遅かった?」
宝井が駆け寄った先にいたのは、あまり彼女には似ていない、活動的な印象を与える女性だった。
多少ぽっちゃりはしているけど、ステレオタイプな『お母さん』像と比較するとしっかりとした骨格を持っている。焦げ茶色の髪の毛はショートカットにしていて、口元にできるえくぼが快活さを表していた。いくつなのかはわからないし聞くつもりもないけど、シワが少なく動きもきびきびとしているから、一見して年齢不詳だった。
これが宝井の母さん。なるほど、たしかに似ていない。陰りがあって受動的、基本寡黙で空気のように振る舞っている宝井とは対照的とも言える。
宝井の母さんの隣には、小学生くらいの男の子がいた。今しがた買ってもらったのか、ずんだシェイクのカップを両手で持ち、吸い上げている真っ最中だ。まだ程よい柔らかさになっていないのか、鼻の下を長くしながらストローを咥えている。宝井の母さんにそっくりだったから、年齢的に弟かな、と推測した。
その宝井の母さんは、声をかけてからくいっと顔を上げた。突然目が合って、俺はどぎまぎしてしまう。
「同じクラスの磐根大地君だよね。詠亜といっしょだったの?」
「えっ……?」
よく通る声で問いかけられて、俺は一層困惑する。何より、名前を覚えられていたことにびっくりした。俺たちは、端から見たらただ席が隣ってだけだし、まだ授業参観もないのに。
「ここで待ってたら偶然会ったの。暇潰しに話してただけ」
俺が何か反応する前に、すかさず宝井が答えている。どうやら俺と色々見て回ったことは内緒にしたいようだ。
ふーん、と相槌を打つ母親に念押しすることなく、宝井はこちらを振り返る。先程まで笑っていたのが嘘のような、よく見る仏頂面だった。
「じゃあね、磐根君」
それだけを言うと、宝井はふいと顔を背けてしまった。宝井の母さんもそれ以上の会話はないと悟ったのか、にこっと笑ってからその場を離れる。
人混みに消えていく三人の背中を、何を思うでもなく眺める。クラスメートとしてではなく、一人の娘としての宝井。いつもと変わらないようで、教室にいる時とは全く違う。
宝井は、学校で孤立していることを家族に伝えているのだろうか。理不尽な目に遭い、口さがないことを囁かれ、弱者の位置に甘んじるしかない自分自身を隠さず、助けを求められる環境にあるのだろうか。
もう嫌だ、と弱音を吐く宝井の姿を、俺は想像できない。涙を流す姿も、寂しそうな姿も、見たことはないから。無理にイメージしても、どこか不格好で不自然になる。
俺の知る宝井は、弱者ながら強い。何でもないように振る舞いながら、日々が過ぎるのを待っている。
改札口に背を向け、俺はバス停へと歩を進める。これからはまた、無表情で強がる宝井しか見られないのだと思うと、胸の内がもやもやした。
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