第七章 疑わしきを罰する世界
1
「──盗まれたんだよ!」
思い思いに雑談していた生徒たちは、その一声で一斉に同じ方向を見た。
振り向きたくなかった。聞かせるつもりで相手が声を上げたのだと、わかりきっていたからだ。
発言したのは干川だ。いつもと同じように、宝井を除いた茜ヶ淵の女子四人で集まっている。その中心には猫屋敷がいて、悲しげに目を伏せていた。
干川と浪輪、そして俺と同じ陸上部である
「あんなに探したのにないなんて、絶対におかしいよ。先生たちだって知らないって言ってるし……やっぱり盗まれたとしか考えられないよねえ!」
そうだね、とか、んだんだ、とか、同意の言葉が続く。干川はあくまでも内輪で話しています、とでも言いたげな口振りだったけれど、クラスメート全員に知らしめようという本心が丸見えだった。
盗まれた──というのは、文脈からして猫屋敷のタオルのことだろう。
あれから数日が経つけれど、例のタオルはまだ見付かっていないらしい。猫屋敷は大層ショックだったようで、あれからも何度か木下や秋月にタオルが落ちてはいなかったか、などと聞いていたが、この様子だと芳しい知らせがないまま今日に至ったにちがいない。
俺としてはたかがタオル一枚で、と思うところだが、とても口にできる状況ではない。以前、下校中にぽつりと前述の本音をこぼしたら、信也が真っ青な顔をして止めてきた。そんなこと冗談でも言うなよ、と、いつも軽薄なあいつにしては焦った顔で。
さすがに大袈裟すぎる、と思わないでもなかったが、それだけ茜ヶ淵女子の連帯は強いということだろう。現にほとんどのクラスメートは見て見ぬふりをしている。下手に関わったら面倒なことになると、皆理解しているのだ。猪上たちも、鬱陶しそうにしてはいるが面と向かって文句を言うことはない。
幸いなことに、宝井はいつものように姿を消していた。あいつがここにいなくて本当に良かったと思う。前みたいに同意を求められてもばっさり断って、教室の空気を最悪にするのは目に見えていた。
「……でも、誰がわたしのタオルを盗んだんだろう? わたしのこと嫌いな人がいるんだべか……」
ずっと口をつぐんでいた猫屋敷が、ここで疑問を言葉にする。純粋にわからない、といった風の言い方だったけど、俺は心底驚いてしまった。
まさか、クラスメートからは全く嫌われていないとでも言うのか。本当にそう思っているならおめでたいことこの上ないし、そうでないとわかっていて口にしたのならなかなかに良い性格をしている。
当然のように、猫屋敷の取り巻きたちはその発言を聞き逃さなかった。明田がわざとらしく教室を見回し、もしかしたら、と大きな声で返す。
「姫魅ちゃんのこと妬んでる人なら、いるんじゃない? ほら、姫魅ちゃん、頭いいし運動もできるし、彼氏だっているんだから」
「……それって、当たり前のことじゃない?」
「えー、そんなことないよ! じゃなかったら、彼氏に捨てられる人なんていないって!」
くすくすと密やかな笑い声がさざめく。俺の背中を、冷たいものが通りすぎていった。
これは大野への攻撃だ。信也に見放された元カノを、あの四人は揃って嘲笑っている。
俺は横目で大野の方を見る。相変わらず猪上たちといっしょにいる大野の顔は、遠目でもそうとわかる程に真っ青だった。猪上や元木も級友の様子には気付いているようだが、あえて知らん顔をしているように見える。何かと騒ぎたがる児備嶋の女子も、当事者になるかもしれない厄介事に首を突っ込みたくはないのだ。
「ち、違うよ! あたし、盗むなんて、そんなことしてない……!」
これ以上明け透けに疑いを向けられるのが耐えられなかったのか、大野が悲痛な声を上げる。もともと甲高いそれは、引き
必死で身の潔白を訴える大野を、猫屋敷はゆるりとした動作で見遣る。変わらず悲しげな色を宿したまま、被害者の顔で。
「えーっ、私たち、春佳ちゃんがやったとは言ってないよ? いきなりどうしたの?」
直接言われる前から弁解すれば、不利になるだけだ。案の定、干川は白々しく返した。どうしたの、などと言ってはいるが、その眼差しは大野に対する悪意で満ちている。
「何もないうちから言い訳するなんて、怪しいよね。もしかして本当に春佳ちゃんがやったとか?」
「彼氏に捨てられたからって、逆恨みは良くないよ?」
「ちが、違うんだって……! あたしは何も盗んでないし、猫屋敷さんのことなんて何とも……!」
「だから、違うって何? やったかやってないのか、どっちなの?」
「ま、口では何とでも言えるけどねー。陰で姫魅ちゃんの悪口言ってたのだって知ってるんだから」
「あーあ、姫魅ちゃん、かわいそう。今まで何言われても、春佳ちゃんのことを思って我慢してたのに」
大野の唇は真っ白だ。言葉にならない声を出し、ついにはうつむいてしまう。
あ、泣くな、と思った。こんな時に冷静になってしまう自分自身に嫌気がさしたけれど、これまでの経験から、大野が限界を迎えることは目に見えていた。
ぽたぽたと大野の目尻から涙が落ちる。反論の代わりにこぼれる嗚咽は、誰の慰めも促さない。
「泣いてたらわかんないよ。もっと落ち着いて話してくれない?」
「言っとくけど、泣きたいくらい辛い思いをしてるのは姫魅ちゃんなんだからね」
「ねえ、聞いてるの?」
茜ヶ淵の女子たちは、矢継ぎ早に大野を責め立てる。いつもは小声でこそこそと話している印象が強いのに、こういう時の声は大きい。
さすがに見ていられない。疑いを否定しているのにほぼ犯人扱いされているようでは、大野が不憫だ。
どうしたら良いかはわからないが、フォローした方が良いだろう。俺が自席から立ち上がる──より前に、動いた奴がいた。
「……うるさい」
不機嫌な様子を隠すことなく大野の前まで歩み寄ったのは、顔をしかめた功一だった。
茜ヶ淵の女子たちも、クラスメートも──何より、大野自身が酷く驚いているようだった。功一が介入してくるなんて、思いもしなかったのだろう。ぽかんとした顔のまま、消え入りそうな声でコウ、と呟いた。
「たかだかタオル一枚でよく騒げるな。盗んだ盗んでないは、見付かってからにすればいいだろ」
普段は関わることなんてない功一から睨まれて、大野を糾弾していた干川たちは気まずそうにたじろいだ。猫屋敷だけが、特段大きな反応を示すこともなく穏やかに応じる。
「功一君にとっては、どうでもいいことかもしれないけど……でも、あのタオルはわたしの大切なものなんだよ。たかだかなんて、言わないで」
「知るか。そんなに大事なら、同級生じゃなくて教師どもに聞いて回れよ。その方が確実だ」
「先生たちも、見てないって言ってたよ。心当たりのある場所だって、何回も探した。それでもダメだったから、今こんなに悲しい気持ちになってるんだよ」
「だからと言って、盗まれたとは限らないけどな。捨てられたって考える方がよっぽどあり得るだろ。犯人探しして楽しみたいだけじゃないのか?」
「そんな……わたし、誰が盗んだとか、一言も言ってないよ。春佳ちゃんが早とちりしちゃっただけ」
「は?」
功一の眉がきゅっと寄る。あいつの考えていることはすぐにわかった──あれだけ大野を犯人扱いしておいてしらばっくれるのかと、そう問い質したいのだろう。
早とちりなんかじゃない。先に大野を煽ったのは干川たちだ。たしかに猫屋敷が発言した訳じゃないけれど、止めなかったのだから連帯責任のようなものではないかと思う。
「それにしても……功一君、春佳ちゃんには優しいんだにゃあ。もう、二人で付き合った方がいいんじゃない? きっとお似合いだよ。ねっ、信也君もそう思わない?」
功一の追及よりも先に、猫屋敷は他人事のようにそう言い放つ。大野の顔が真っ赤になり、功一はわかりやすく嫌そうな顔をした。
いきなり話を振られた信也はというと、びくんと大きく体を揺らした。きまり悪そうにぎこちない笑顔を浮かべて、ああ、とかうん、とか、曖昧な返事を寄越す。
最悪だ、と思った。功一はこういう恋愛絡みの話が嫌いだ。これで一気に機嫌を損ねて、後先考えずに噛み付いたりしたらさらに騒ぎを大きくしかねない。
さらに面倒事とは重なるもので、このタイミングで宝井が教室に戻ってきた。入口のところで異常事態に気付いたらしく引き返そうとしているのが見えたが、猫屋敷がそれを見逃すはずもなく先んじて声をかけられる。
「ねえ、アリアちゃん。春佳ちゃんと功一君、付き合ったらお似合いだよね?」
「は……? 何の話……?」
唐突に同意を求められた宝井は、わかりやすく困惑している。一部始終を眺めていた俺だって戸惑っているのだから、話の筋がわからない宝井は尚更だろう。こんな下らないことに巻き込まれて気の毒だ。
「ほら、春佳ちゃん、信也君と別れちゃったべ? だけど功一君とも仲良いし、わたしは功一君と付き合った方が春佳ちゃんのためになると思うんだよね。アリアちゃん、功一君とは部活がいっしょでしょ? だから二人の相性がいいこともわかるかと思って。二人とも、よくわかってないみたいだし」
「いや、知らないよ……。私には関係ないから」
「関係なくないよ。アリアちゃんは、姫魅ちゃんがしんどい思いをしていいと思ってんの?」
さっさと逃げようとした宝井の前に、干川が立ち塞がる。明田と浪輪も、 責めるように宝井を見た。
これではいけない、と直感的に思った。大野がそうだったように、宝井もターゲットにされたら。この教室に味方のいない宝井が共通の的にされて、やりたい放題されたらどうなるか──予想するしかできないけれど、それでも俺の望まない結果がもたらされることは目に見えていた。
「──猫屋敷!」
気付けば、俺は立ち上がっていた。がたん、と椅子が音を立てて倒れる。
茜ヶ淵の女子たちも、大野と功一も、そして宝井も──皆、えって顔をして、俺に注目した。功一が出てきた時よりも、驚いているようだった。
猫屋敷だけは表情を変えなかったが、それでも意外ではあったのだろう。ぱちぱちと目を瞬かせて、ゆっくりと俺の方を向く。
「大地君? どうしたの、いきなり大きな声を出して……。皆、びっくりしてるよ」
それは申し訳ないと思ったけど、ここで謝ってはいけないような気がした。唾を飲み込み、俺は猫屋敷の目を真っ向から見つめる。
「探すの、手伝うよ。タオル」
「えっ?」
「うちの班、今月の掃除は体育館担当だろ。もしかしたら、後から使った学年の人が、避けておいてくれたのかもしれない。掃除の時に、用具室や更衣室も探すよ。灯台もと暗しっても言うだろ」
前もって用意しておいた訳じゃないのに、俺の口からはすらすらともっともらしい言葉が飛び出た。実際、猫屋敷は同じ班にいる訳だけど──それでも見落としている可能性はある。高い場所に置かれていたなら、猫屋敷の背丈では確認が難しいこともあるだろう。
矛盾がない訳ではないだろうけど、猫屋敷はすぐに反論しなかった。反芻するように一度目を伏せてから、すぐににっこりと微笑みを浮かべる。心底嬉しそうな顔だった。
「大地君、ありがとっ。嬉しいよ、そんなこと言ってくれるなんて思わなかった」
「クラスメートが困ってたら助けるのが学級委員だろ」
「ひゅーっ、大地ってばかっけえなあ!」
俺としては当たり前のことを口にしたつもりだったが、外野から野次が飛んで来た。こんな時でもちょっかいをかけられる長内は、いっそ豪胆なようにも思う。
良くも悪くも、長内の一声は教室の空気を弛緩させた。賑やかな男子たちはひゅーひゅーと囃し立て、猪上たちも他人事みたいに笑う。大野は目をきょろきょろさせていたが、目に見えて安堵した様子だった。これなら責められないと感じ取ったのだろうか。
「ちっ、どいつもこいつも……」
その中で最も不機嫌なのは功一だ。恋愛絡みの話題に加えて、自分に向かったものではないといえ冷やかしまで食らう始末。信也が周囲に合わせてへらへら笑っているのも気に食わないのだろう。今にも手近な奴に掴みかかりでもしそうな雰囲気をかもし出している。
「功一、ここは抑えろよ。これ以上問題をややこしくしたら、また大野が疑われるかもしれない」
こそりと耳打ちすると、功一は鋭く俺を睨んだ。一際大きな舌打ちをかますと、体内に溜まった怒りを逃がすように長く息を吐き出す。
「余計なお世話だ。首突っ込んで損した」
そう言い捨てて、功一はさっさと自席に戻ってしまう。取り残される形になった大野も、そそくさと猪上たちとの会話に戻っていった。
ひとまずはこれで一件落着だろうか。上手くやれた──とは言えないけれど、大野や宝井が変な絡まれ方をされるのだけは嫌だった。
いつまでに立っている訳にはいかないので、俺も腰を下ろそう──としたところで、ちりちりと皮膚の表面に痒みが走った。誰かに見られていると気付くのに、そう時間はかからなかった。
見れば、鷲宮がこちらを凝視している。意気消沈しているとはいえ、気の強さは生来のものだ。何か気に入らないことでもあったのか、俺の方を真っ直ぐに見つめ、まなじりをつり上げている。
俺に捕捉されたと気付いたのか、鷲宮はふいと視線を逸らした。しかし彼女が纏う怒気が消えることはなく、俺は居心地の悪さを覚えずにはいられなかった。
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