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「そりゃあ、決まってるだろ。ノーメンちゃんなら、いけるって思ったんだよ」
久しぶりに信也と功一、そして俺の三人で歩く帰り道。新しく巻いたらしいテーピングに慣れるためか、拳を握っては開いてを繰り返しながら、信也は事も無げにそう答えた。
信也の答えは、その直前に俺が投げ掛けた問いに対するものだ。今日の給食の時間、どうして比々野はあれほど怒っていたのだろう。あんなに憤る比々野は初めて見たし、何しろ相手は宝井だったから、俺は日常の中で少しだけ飛び出た予想外の出来事として片付けることができないでいた。
「……いける、って、何がだよ」
信也はさも当たり前と言わんばかりの顔をしているが、俺にはその答えの意味が理解できなかった。
真ん中を歩く功一が、じろりと俺を見る。何か言いたげな顔だった。しかしこういう時、功一は言いたいことを直接口にしないと俺は知っている。何かを目で訴えるのは、彼が沈黙するという証のようなものだ。
はは、と信也が軽やかに笑う。楽しそうではないけれど、感情を包み隠しているようにも見えない。無意識に出てきた笑い、とでも言えば良いのだろうか。
「にぶちんだなあ、大地は。ノーメンちゃんにキレたって、比々野は何のダメージも負わないだろ。日頃溜め込んでたストレスを、まとめてノーメンちゃんにぶつけたんだよ」
ほら、あいつ、麗那たちの尻に敷かれてるから。
にやにや笑う信也に、笑い返すことはできなかった。言い様もない不快感が腹の底からじわっと広がり、自然と顔が歪むのを自覚する。
「それってただの八つ当たりじゃないか。宝井はとんだとばっちりだよ。それにあんな風に大声なんて出して……みっともないと思わないのかよ、比々野は」
「お前、何本気になってるんだよ」
俺を見上げながら、呆れを多分に含んだ声で言うのは功一だ。部活終わりの功一からは、何とも言えないにおいがする。防具や胴着に染み付いた、剣道部独特のにおい。
信也や猪上たちからは臭いだの何だのと言われているが、俺はそこまで気にしなかった。不快になる程ではないし、日常生活に支障をきたすものでもない。功一が頑張っている証に、剣道をやったことのない俺があれこれ言うのも無粋だ。
ただ、最近になって、隣に座っている宝井はこの独特のにおいを纏っていないと気づいた。女子の体臭について考えるなんて、一歩間違えれば変態扱いされかねないので、誰かに言えたことではない。宝井のことが最近気にかかっているから、つい彼女に目がいくだけだ。
でも、今日の出来事は、たとえ当事者が宝井でなくとも疑問を覚えずにはいられない。
「まあまあまあ、そう睨むなよ、功一。大地の正義感が強いのは昔ッからだろ。ムキになるなって」
大地もあんまり熱くなるなよ、と頼んでもいないのに信也がフォローを入れてくる。
昔からもめ事が起こりそうになるとするりと割り込んできて、二人とも落ち着けよとか何とか言いながら宥めてくるのが信也だった。本人いわく、トラブルが起きそうなのを指咥えて見てるとかマジないわ、とのことだが、自分のトラブルを減らそうという気概はいまいち感じられない。その癖、己に非のあるトラブルが発生した時は、俺はそういうつもりじゃなかった、こいつの解釈が悪い、などと言って責任から逃れようとする。
きっと、大野から猫屋敷とのやり取りを追及されても、信也は気だるそうに言い訳するのだろう。お前には付き合ってるように見えたのかもしれないけど、俺にそんなつもりはなかった。そんなに嫌なら別れれば良い。お前だって真剣に付き合おうとか、そういうのじゃないんだろ。
……全て俺の想像なのに、やたらリアリティーがあって気分が悪い。それに、今は俺と功一が少しピリッとしただけで、信也は何も悪いことなんてしていないではないか。
最近はいつもこうだ。少し気に入らないことがあると、口には出さないけれどあれこれと無駄に話を飛躍させて、昔ならこんなことはなかった、と回顧する。信也や功一に文句を言って、波風を立てる勇気はない癖に。
内心で俺がぐずぐずと腐っているとは知らないであろう幼馴染二人とは、いつも通りの道で別れた。そこからは、一人で農道を歩く。
ずっと溜め込んでいた空気を、長めに吐き出す。
信也と功一のことは嫌いではない。二人とはこれからも仲良くしたいと思っている。
でも、今の二人を見る度に、昔の──細かいことを気にせず、無邪気に遊べていた頃が恋しくなる。
多分、俺は二人にとって『普通』とされるようなものの見方ができないのだ。傷付く大野を放っておくのは心苦しいし、宝井に対する風当たりが強いことに首をかしげずにはいられない。人が傷付いて、苦しんでいるかもしれないのに、日常で起こる小さな出来事のひとつとして受け流すなんて無理だ。話しているのが幼馴染の二人でなかったら、偽善者だ何だと指摘されていたかもしれない。
暮れなずむ夕日の中、俺は足を止める。逆光を受けて黒々とした木立。天神さんの前までたどり着いていた。
鳥居の横には、自転車が停められていた。
「宝井!」
気付けば、俺は鳥居を潜り、社殿の前に立っていた。自然と走り出していたのか、少しだけ息が苦しかった。
賽銭箱の横に、宝井はちょこんと座っていた。何か書き物をしていたのだろう。膝にはA5サイズのリングノートが開かれていて、右手にはボールペンを握っている。突然飛び込んできた俺に驚いたのか、はっと顔を上げてこちらを見た。
俺は、何と言えば良いのかわからなかった。衝動的に名前を呼んでしまったけれど、それ以上の言葉が思い付かない。信也や功一となら、何気なくとりとめのない話ができるのに。呼吸の苦しさとは別に、息が詰まる。
「……どうしたの」
前よりも、幾分か柔らかい声だった。それでも刺々しさが収まった訳ではない。訝しげに目をすがめて、宝井はノートを閉じる。
「いや──宝井の自転車、見つけたから。また来てるんだって、思って」
息継ぎが上手くできなくて、俺の返答はあまりにもたどたどしくなってしまった。もしここがクラスメートの揃っている教室で、俺の立場が宝井と同じくらいだったら、四方八方からくすくすと密やかな笑いを向けられていたことだろう。
だが、宝井は特にこれといった反応を寄越さずに、ちらと視線をくれただけだった。そのまま脇に置いていた指定鞄から文庫本を取り出して読み始めたので、目線は一瞬で俺から外される。
居たたまれない気持ちになったが、拒絶されているのではないという確信はあった。俺は社殿へと歩み寄り、宝井と賽銭箱を挟む形で腰を下ろす。
「この前の人のこと、まだ調べてるのか?」
既に鞄にしまわれているノートのことを思いながら、俺は尋ねる。宝井が会話を好むようには思えなかったけれど、俺が沈黙に耐えられないので仕方ない。それに、宝井とも色々と話をしたかった。
「呉井璃左衛門ね」
文庫本から目を離さず、宝井が答える。短い言葉の中に、ちゃんと覚えておけよ、とでも言いたげな色が見え隠れしているように思えるのは気のせいだろうか。
暗記が苦手という訳ではないけれど、テストに出るのでもない人名となると一発で覚えられるものではない。すらすら口から出てくる宝井の方がすごいと思う。
「はいかいいえで答えろって言われたら、概ね前者。まだ知りたいこともたくさんあるし、史料も引き続き探してる。個人でできることには限界があるけど」
「そうなのか。勉強熱心だな」
「成績には役立たないけどね。何のためにもならないお勉強」
「そこまで言ってないだろ」
どうだか、と宝井は鼻で笑う。
しかし、不思議なこともあるものだと思う。教室では一言も話さない上に、いつの間にか姿を消している宝井が、ぶっきらぼうではあれど俺と受け答えをしている。相変わらず目線はくれないが、普段の生活からは想像もできない光景だ。
話しかければ意外と答えてくれる辺り、宝井は誠実な人なのではないか。俺は宝井への認識を少し改めた。
「そういえば、宝井」
問いに一通り答えると宝井は黙ってしまうため、俺は新しい質問を投げ掛ける。何となく、会話を途切れさせたくなかった。
「昼休み、どっかに行ってるみたいだけど、いつもどこに行ってるんだ?」
この前、鷲宮が気にしていた──とは言わないでおいた。放課後まで彼女に追い回される気持ちにさせたくはない。
宝井は一瞬顔を上げた。僅かに頬が歪む。不機嫌そうな顔だった。
「……鷲宮さんに聞かれたの?」
俺は質問の仕方を誤ったかもしれない、とこの時後悔した。いくら何でも唐突過ぎたし、何だか探りを入れているみたいだ。
だが、鷲宮に聞かれたというのも事実。下手に誤魔化せばぼろが出かねない。
「そうだけど、俺が個人的に気になるってのもあるよ」
「…………」
「別に、鷲宮に告げ口しようとか思ってないよ。でも、あの鷲宮でさえ見つけられないって言うから、一体どこに行ってるんだろうって思って」
はあ、と宝井は息を吐き出す。それからしばらくの間言葉がなかったので、俺はてっきり無視されたのではないかと思って居たたまれない気持ちになった。
「図書室にはよく行く」
そのため、ややあってから返事を寄越された時は、自分でも驚く程安心した。
なんだろう、この綱渡りのようなコミュニケーションは。クラスメートと話すのにこれほど緊張したのは初めてだ。
「そっか。宝井、よく本読んでるもんな」
「悪い?」
「そんなこと一言も言ってないだろ」
柔らかく反論すると、宝井はふいとそっぽを向いた。叱られた子供のような仕草だ。
「余計なお世話かもしれないけど、宝井、ちょっと言い方がきつい。そういうの、あんまり他人に向けない方がいいと思う」
教室では無口を通り越して
もし、部活で鷲宮と話すことがあれば、宝井は俺に対する話し方と同じように接しているのだろうか。だとすれば、鷲宮に目を付けられるのも無理はない。あいつもきつい話し方をする奴だけど、宝井のような素っ気なさや壁はなく、むしろこちらの領域にずかずか踏み込んでくるタイプだ。とどのつまり、宝井と鷲宮は相性が悪そうだった。
そういったことも考えながら、特に傷付いた訳ではないが、俺は宝井の今後も鑑みて注意をしてみた。何様だ、と言われれば反論のしようがないけれど、面と向かって悪口を言った訳ではないし、非常識の部類には入らないだろう。
「……うるさいな」
案の定、宝井は顔をしかめた。本気で嫌そうな表情だった。
「別に、皆の前では喋らないから。嫌なら帰るなり、お友達に告げ口するなりすれば。自分に暴言吐いたドブスの相手なんてしてないでさ」
「いや、だからそんな風には思ってないって。俺は俺の考えを言っただけだよ」
「だからって、磐根君から目くじら立てられる理由はないんだけど」
「目くじらとか、そういうのじゃなくて……。そういう話し方してたら、周りが宝井のことを誤解するんじゃないかって心配なんだ。クラスメートから印象だけで態度を変えられたら、宝井だって嫌だろ」
「……ああ、なるほど」
合点がいったよ、と宝井は唇の端を歪める。
「磐根君、給食の時のことでも気にしてるんでしょ。比々野君が怒鳴るなんて、滅多にないもんね」
心の内を見透かされたようで、俺はどきりとした。知らず、ひゅ、と喉が鳴る。
給食の時間、宝井に怒鳴り付けた比々野。あいつの行動に、俺は納得がいっていない。相手が宝井だから、強く出ても誰にも咎められないから、あんな風に……高圧的な態度を取るなんておかしい。誰に対してだって、傷付けたり、怖がらせたりするような振る舞いはするべきではないと思う。
宝井に気圧されまいと、俺は心持ち胸を張った。猫背になれば、そのまま宝井に押しきられて、天神さんの外まで追いやられそうな気分だった。
「……たしかに、今日の……比々野のことが気になったのは、本当のことだ。でも、俺は宝井を責めようと思って言ったんじゃないし、さっきの指摘に絡めたい訳でもない」
単語のひとつひとつを噛み締めるように、俺は宝井に告げる。諭す、と表現するのが的確かもしれない。
宝井ははあ、とため息を吐いた。面倒臭いなあ、と、教室では考えられない程にはっきりした声でこぼす。
「磐根君、悪気とかないんだね。もしかして私に、クラスメートと仲良くして欲しいとか思ってる?」
「当たり前だろ」
隣の席になるまで──いや、天神さんで偶然見かけるまで、俺は宝井のことなど見えていないも同然だった。それだけ宝井の存在感は薄かったし、宝井自身、目立とうとしないからますますその存在を認知されない。協調の姿勢は見せるけれど、自己主張はしないから、利己主義者的なクラスメートたちからは侮られ、良いようにいじられる。
俺は、それをおかしいと思わずにはいられなかった。宝井が嫌な思いをしているかもしれないのに、宝井の気持ちなど考えず日常として切り捨てていくなんて、心ないにも程がある。宝井にも、他のクラスメートと仲良くして欲しい。
宝井はじっと俺を上目遣いに見た。女子の中でも特に小柄な宝井と、四捨五入すれば百八十センチに届く俺では、頭の位置が違いすぎる。
「──大迷惑」
そして、そんな宝井が発した言葉は、あまりにも冷えきり、凍てついていた。
「私、あの教室で不必要に群れたくないの。同級生と仲良くする気もないし、仕方なく一人で行動してる訳じゃない」
「宝井、」
「だから、余計なことはしないで。私の在り方が気に食わないなら、鷲宮さんなり何なり、私を良く思っていない人に告げ口すればいい。どいつもこいつも過干渉、べたべたくっついていないと死ぬ病気にでも
一息に吐き出した宝井は、口を閉じると微かに肩を上下させていた。普段、ここまで言葉を連ねて話すことは少ないのだろうか。息切れしてはいなかったが、その顔は苦しそうだった。
相槌を遮られ、発した忠告そのものを拒絶されたことに気付けない程、俺も鈍感ではない。俺は良かれと思って忠告した訳だが、宝井にとっては口うるさいお説教でしかなかったのだ。同級生が相手とはいえ、冷ややかな視線を向けられるのはさすがに堪える。
ぱたん、と小さな音が鳴る。宝井が本を閉じたのだ、と理解した時には、既に彼女は立ち上がっていた。
「帰る」
短い言葉だったが、宝井がこれ以上の対話を望んでいないことがはっきりわかった。声を荒げず、淡々とした口調と行動で一切合切を拒絶するものだから、俺はどうしたら良いのかわからないまま立ち尽くす他ない。
「そうだ、これ」
そのまま鞄を背負って立ち去ってしまうかと思われた宝井は、何を思ったか鞄からクリアファイルを取り出した。そこに挟み込まれた書類を、ん、と無造作に突き出す。反射的に、俺は書類を受け取った。
「これは……?」
「呉井璃左衛門、知りたいって言ってたでしょ。とりあえずそれ、インターネットで調べられる資料。名前を入力しただけじゃ、全然ヒットしないから」
いらないなら捨てて、と早口に告げて、宝井はさっさと鳥居を潜り出ていった。俺がお礼を言う暇さえくれなかった。
押し付けられた書類に、ゆっくりと目を落とす。
どこの家庭にもありそうな、A4のコピー用紙をホチキスで留めている。どこかのブログをコピーしたものだろうか。全体的に写真が多い。カラーコピーされているからか、写真は潰れておらず、写真と同じように視認することができた。
突き放すようなことを言った後で、わざわざ俺のためにコピーしたものをくれたのか。
ショックを受けたのは事実だ。俺は宝井の心情など何一つ思いやれなかったのだと思い知らされたし、自分にとっての常識で偉そうにものを語っていたことを恥ずかしくも思った。
でも、それよりも先に、宝井が変に律儀だという事実が先行してしまう。俺の発言なんてなかったことにできたはずなのに、それでもあいつは約束とは言えない単なる俺の要望を叶えようとしてくれた。
帰ったら、ちゃんと読もう。捨てるなんて、あり得ない。
こぼれ落ちる笑いを口周りのみに留めつつ、俺は薄暗くなり始めた天神さんを後にした。
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