3

 宝井は普通に登校してきた。前から三番目、窓際の席。既に座っている俺の後ろを静かに通って、あいつは席についた。

 八時半から朝読書が始まって、四十五分からショートホームルーム。だから、生徒は八時半までに登校しなくてはならない。

 今の時刻は八時二十五分──あ、二十六分になった。朝読書まで五分もないけど、教室は賑やかだ。猪上のような派手なグループが騒いでいるのが原因だった。

 予習のために解いていたワークの問題を中断し、ちらと横目で宝井を見る。

 相変わらず前髪が長い。後ろ髪は結んであるが、後れ毛がいくつか飛び出している。何というか、全体的に顔が薄い。

 宝井は一足早く朝読書に入っていた。表紙は机にべったり付いているから何を読んでいるのかわからないけど、とんでもなく分厚いハードカバーの単行本だった。多分、三百ページはゆうに超えていると思う。びっしり並んだ字は小さくて、横目で確認するだけでは読み取れなかった。


「宝井さん」


 凛とした、よく通る声が降りかかる。自分が呼ばれた訳でもないのに、俺は反射的に顔を上げていた。

 宝井の机の前に、女子生徒が立っていた。

 ぴんと伸びた背筋。真ん中できっちり分けられた前髪。胸元にかかる、長い二つのお下げ。

 鷲宮英里奈だ。もとからきりりとした顔をさらに険しくして、彼女は宝井を見下ろしている。

 宝井は何も言わなかった。本を閉じることもなく、黙って視線を上げた。のろのろとしたその動きはいかにも面倒そうで、今にもため息を吐きそうに見えた。

 そんな宝井の態度が多かれ少なかれ気に食わなかったのだろう。鷲宮はもともと寄せていた眉間のしわをさらに深くして、再度宝井さん、と呼び掛けた。それはあくまでも念押しというか話し始めの切り出しのようなもので、宝井が話を聞いていなくてもそうしたのだろうということが部外者の俺にもわかった。


「あのね、何回も言ってるけど、勧誘活動、ちゃんと手伝ってくれないかな。ポスター印刷したり、チラシ配ったり……簡単なことよね? それなのにどうして、いつも勝手に帰るの? 少しは協力すべきだと思うんだけど」


 鷲宮の声には、明らかな苛立ちが込められていた。いつまでも彼女の顔を見上げている訳にはいかないからワークとノートに視線を落としたけど、きっと先程より険のある表情を浮かべているのだろうと思った。

 宝井は勧誘に対するやる気がない、という功一の話はあながち間違っていないらしい。勧誘する気満々の鷲宮には、それが許せないのだろう。


「女子が五人いないと、団体戦に出られないのよ。それがどれだけ悔しいことか……どうして宝井さんにはわからないのかしら。このまま誰も入部しなかったら、私たちの代で終わるかもしれないのに……。練習もそうだけど、宝井さんも剣道部の一員なんだから、もっと真面目にやって欲しいの。あなた、いつもやる気ないし、ちゃんと部活に取り組む気ないでしょう」


 尖った声は、容赦なく宝井に浴びせ続けられている。この様子だと、以前にも何度か同じように勧誘の手伝いを促しているのだろう。だというのに、宝井は鷲宮を手伝うことなく日々を過ごしている。


「……ちゃんとって何」


 消え入りそうな声だったが、確かにそう聞こえた。鷲宮の声ではない──とすれば、宝井が発したものだろう。

 幽かな反論は、幸か不幸か鷲宮には届かなかったようだ。頭上──心持ち斜め──から、何、聞こえない、と鷲宮の刺々しい声が降りかかる。


「……ごめん」


 先程の反論より幾分か声量を上げて、宝井はそう謝罪した。どのような顔をして言っているのか、俺にはわからない。


「でも私、忙しいから」


 しかしその謝罪からは、鷲宮の要請に応える気が微塵も感じられなかった。

 宝井の声は掠れている。どちらかと言えば高い方だが、猪上や元木のような甲高くてキンキンした感じはなく、細くて今にも消えてしまいそうな声。弱々しくはあるけれど、そこに反省の色はない。


「……忙しい? 忙しいって何、だからって部活動を怠っていい理由にはならないでしょう」


 鷲宮の声は僅かに震えて、無理矢理に感情を圧し殺しているのが明白だった。

 恐らく、鷲宮は憤っているのだろう。宝井が勧誘活動に取り組もうとしないから。


「……部活には出てるでしょ」


 でも、鷲宮の怒りに宝井が突き動かされた様子はない。至極億劫そうに、寝不足みたいな声で返す。


「私、やることあるから。お手伝いは無理。ごめんね」


 それ以上の追及はいらない、と言わんばかりの発言だった。ごめんね、と言ってはいるが、そこに罪悪感は見受けられない。取って付けたような謝罪だ。

 そう、と鷲宮は言った。今にも激情が溢れ出しそうな声色だった。とてもではないが、彼女の顔を見る気にはなれない。


「前も、そんなことを言ってたわね。本当にどうしようもないのね、宝井さんは」


 失望と軽蔑にまみれた台詞を絞り出してから、鷲宮はその場を離れていった。その細い体からは、凄まじい怒気が漂っている。俺の前を通り過ぎる時、刺すような空気が頬を突いた。

 宝井は今、どんな顔をしているのだろう。

 何故だか無性に気になって、俺は顔を上げる。少し確認しよう、程度の気持ちだった。

 だが、あろうことか宝井と目が合ってしまった。変にタイミングが重なってしまった気まずさが、居たたまれない空気を生み出す。


「……何?」


 前髪の奥にある一重瞼が細められる。掠れた細い声は警戒と怠さを纏い、彼女の機嫌が決して良くないことを物語っていた。


「いや、ごめん。鷲宮と話してるの、意外だと思って」


 何も言わずに顔を背けるのもどうかと思ったし、何となく宝井と話しておかなければならないという気持ちもあったので、俺は苦笑と共に謝罪した。

 改めて考えると、宝井と初めて話したように思う。近くの席になったのも今回が初めてだし、委員会やクラス内での係も被ったことがない。加えて出身小学校も違うから、接点は皆無だった。

 そんな宝井は、すぐに答えず何度か瞬きをした。無言の時間が地味に辛い。


「部活、いっしょだから」


 至極簡潔な返答だった。予想できた答えでもあった。

 当たり前だよな、と思う。あの二人が友人関係とは考えられないし、見るからに険悪なやり取りをしていたのに、それ以上の繋がりを紹介することなんてできるはずもない。宝井からしてみれば、俺は突然首を突っ込んできた野次馬のようなものだろう。

 そうなんだ、と俺は相槌を打つ。会話はこれでおしまいだ。これ以上話すことはない。余計な詮索は、さらに宝井を不快にさせるだけだ。


「古沢君から剣道部のこと、聞いたりしないの」


──会話が、続いた。

 これでやり取りが断ち切られると思っていた俺は、心底驚いた。宝井が続けて喋ったことも、驚愕を助長させた。

 古沢君というのは、功一のことだろう。古沢という苗字の生徒、それも剣道部となるとあいつしか当てはまらない。

 しかし、ここで功一の名前を出されるとは。宝井が俺の交友関係を把握していたということは、彼女が鷲宮と話していたこと以上に意外だった。


「いや、あいつ、あんまり部活のことは話さないから」


 驚きから少しどもってしまうのが情けない。今なら、宝井の方がよっぽどな生徒に見える。

 宝井はふうん、と興味なさげに呟いてから、開きっぱなしにしていた本へと視線を落とした。今度こそ、俺たちの間でやり取りされていた会話は終わった。

 図書委員が教卓の横に置いてある椅子に座り、朝読書が始まる。勿論皆が皆真面目に読書するはずもなく、こっそり内職したり、まだ終わっていない課題を必死になって解いたりしている生徒もいる。

 普段、俺は朝読書の時間を授業の予習にあてるけど、この日は何となく読書したい気分になった。本を持参している訳ではないので、国語の教科書を取り出して、まだ習っていないページを開く。


『古沢君から剣道部のこと、聞いたりしないの』


 宝井からかけられた言葉を思い出す。短くて素っ気ないからこそ、変に印象に残った。

 宝井は、児備嶋出身の俺たちのことを、どこまで知っているのだろう。全く話さない、ただのクラスメートのことを。

 今日の宝井は天神さんに来るだろうかと、俺は内心で思う。会ってどうこうしたいとか、明確な目的がある訳じゃない。仮に天神さんに来る理由がわかったとしても、俺とは関係ないことだ。

 俺はわかっている。これは、単なる好奇心だ。きっと、宝井をノーメンちゃん、なんて揶揄して呼ぶ奴らと変わりない、はた迷惑な好奇心。

 少し、嫌だな、と思った。身勝手な自己嫌悪だった。

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