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今日は珍しく晴れていたので、帰りに天神さんへ寄ることにした。段々と日が長くなっているからか、もうすぐ六時を回ろうかという刻限なのに夕日が沈む様子はない。まだ空は青くて、太陽も顔を出している。
覗いてみると、やはり宝井が先に来ていた。宝井、と呼びかけると、慣れた様子で顔を上げる。なにやら書き物をしている最中のようだった。
「お疲れ。今日は部活?」
「ああ、晴れてたから」
そっか、と相槌を打ち、宝井はぐっと伸びをする。何を書き付けていたのか気になったが、俺がノートの中身を見る前にそれは閉じられていた。代わりに、俺の視線は宝井の指に向かう。
右手の中指に、ペンだこがある。柔らかそうな皮膚の中で、そこだけが硬く盛り上がっている。きっと普段から筆記用具を握ることが多いのだろう。宝井らしいと思った。
「それで、磐根君。結局、あいつのタオルは見付かったの」
どれくらい書き物をしたらペンだこができるんだろう、と考えていると、宝井から不意に話しかけられた。本筋がわからずぽかんとしていると、呆れ顔で猫屋敷姫魅、と切り出される。
「昼休みに言ってたじゃん。あいつのタオル、探すの手伝うって。掃除の時間、きょろきょろしてるのは知ってたけど……」
「ああ、あれか……」
結果だけ言えば、猫屋敷のタオルは見付からないままだ。用具室や更衣室、ステージ裏なんかも見て回ったが、どこにもそれらしきものは見当たらない。猫屋敷たちが探してもだめだったのだから、俺ごときが加わったところで成果など目に見えているようなものだが──それでも、言い出したからには有言実行しなければ。それに、ああいった騒ぎが長続きして欲しくない気持ちもある。
ふるふると首を横に振って否定を示すと、やっぱりね、と肩を竦められた。俺と同じで、宝井も対して期待していなかったようだ。
「磐根君が加わったくらいであっさり見付かるなら、あんなに騒ぎ立ててないでしょ。体育館から見付かるとも思えないし」
「でも、タオルがなくなったのは体育の授業の時だろ? まさか本当に盗まれたとでも言うのか?」
「どうだかね。私のロッカー辺りから出てきたりして」
「冗談でもそんなこと言うなよ。大体、あの時の宝井はそれどころじゃなかっただろ」
「そんなの、あっちは知ったことじゃないよ。騒いで目立つのが目的なんだから」
本当に困ってるかもしれない、という気持ちがないではなかったが、宝井の前で口にしたら機嫌を損ねそうなのでやめておく。猫屋敷のことになると、宝井は他のクラスメート以上に手厳しい。根本的に、猫屋敷のことを信用していないのだ。
何をどうしたら、ここまで嫌われることができるのか。脳裏に猫屋敷の顔を思い浮かべてみるが、まあ猫屋敷だから仕方ないか、という身も蓋もない考えしか思い付かなかった。
いつも微笑みを浮かべた、欠点などひとつもなさそうに見える、愛想が良くていつも誰かといっしょにいる猫屋敷。教室で孤立している宝井とは、良くも悪くも対照的だ。
何もしなくたって、猫屋敷ならそこにいるだけでちやほやされそうなものだけど……宝井からしたら、彼女は目立ちたがっているとのこと。これ以上目立つとなると悪目立ちしかしなさそうだが、猫屋敷に利はあるのだろうか。
「そういえば、もうすぐプール解禁だな」
これ以上猫屋敷の話を続けて、宝井の機嫌を悪化させたくはない。俺は今週末に控えているプール掃除を思い出し、話題を変えた。
以前、宝井は水泳なら好きな方だと言っていた。プールが使えるようになれば、彼女にとって体育の時間はいくらかましなものになるのではないか。
顔を上げた宝井は、そうだね、と先程よりも柔らかい口振りで相槌を打つ。しかし、その顔が晴れることはない。
「プールは楽しみだけど、その前にプール掃除があるからなあ。それがちょっと憂鬱」
「プール掃除、嫌なのか?」
「暑い中、苔とか藻でいっぱいのプールを掃除する訳だからね。水泳の授業がなかったら、絶対にやりたくない。プール掃除だけやりたいって人、いないんじゃない?」
「それはたしかに……」
プール掃除は二年生の役割だ。うちの学年は一クラスしかないから、もともと重労働なのがさらに大変になるだろう。人数が少ないということもあるが、その中で真面目に取り組もうという生徒は一体何人いることか──改めて考えてみると頭が痛くなる問題だ。
嫌だと言ってはいるものの、宝井はこういう作業を真面目にやる方だと思う。皆がどれだけ騒いでいても掃除の時間は黙々と作業に集中しているし、日直になったら背伸びしながら黒板の文字を消している。そういえば、一年生の時にあった林間学校でも、黙々と
ふざける奴が悪目立ちするから、宝井のような静かに、そして文句ひとつ言わずにいる人は埋もれてしまうのかもしれない。宝井という存在を気にも留めていなかった過去の自分が恥ずかしい。
「プール、楽しいけど一年ぶりだから、ちゃんと泳げるか不安だな」
しまっている水着も出さないとだし、とぼやくと、宝井は長い前髪の奥でぱちぱちと瞬きする。
「そこまで心配することないと思うけど……。磐根君って、夏休みとかにあまり泳ぎに行ったりしないの?」
「学校の授業がほとんどだよ。この辺り、プールないしな。車出してもらってまで行きたいとは思わないし、海も遠いだろ」
「ふうん。じゃあ夏休みってどうしてるの」
「家の手伝いだよ。たまに信也とか、功一の家に遊びに行く。できることなら海水浴にも行ってみたいけど、うちはほとんど遠出しないから」
祖父母に苦労をかけてまで遊びたいとは思わない。他人から見たらつまらない夏休みかもしれないけど、宿題も効率よく終わらせられるし、友達と遊べるだけで満足だから、俺はあまり困っていない。信也や部活のチームメイトからは、度々もったいないと言われるけど。
インドアとは少し違うかもしれないが、俺はこの土地に居続けることに心地よさを覚えているんだろう。他の土地──仙台や山形市内に出る度に、強く思う。結局のところ、帰ってくることを考えたら地元以上に居心地のいい場所はないって。
きっと俺は中学、高校を卒業しても見知った土地に居続けるだろう。先のことなんてわからないけど、そんな気がする。俺の世界は広がらず、心地よい井戸の中で一生を終える蛙なのだ。
俺の言葉を耳にした宝井は、肯定も否定もしなかった。ただ、視線をおもむろに上げて、海かあ、と遠い目をする。
「日本海は、あんまり海水浴って感じじゃないからね。有名なのは沖縄だけど、そこじゃ遠すぎるってなったら、下田とか淡路島、あとは白浜なんかもいいところだよ。結局は磐根君の行きたいって思ったところが一番いいと思うけど」
「詳しいんだな。宝井は、よく旅行に行くのか?」
「親が旅行好きだからね。……言っとくけど、これ、自慢じゃないから」
「そんな風に思ってないよ。県外のことはよく知らないから、帰ったら調べる。逆に、宝井は行きたいところってあるか?」
何か思うところがあったのか、宝井の顔がさらに曇る。自慢していると思われるのが嫌だったのだろうか。
思い返してみれば、いっしょに仙台を回った時も、宝井はこんな顔をしていた。よく仙台に行くということがただの事実であり、決してひけらかしている訳ではないのだと、念を押すように伝えてきたのだっけ。
恐らく、宝井は今まで遠出することを伝える度に、自慢していると責められてきたのだろう。児備嶋では、夏休みに出かけるとしても東北、遠くて東京がいいところだった。況してや、普通の土日に仙台まで行く奴なんてそうそういない。休み明けにお土産を持ってくる奴がいると、それだけで教室が湧いた。
茜ヶ淵でも、似たような状況にちがいない。とりわけ、宝井は孤立している。本人にその気がなくとも、あいつらの神経を逆撫ですることは少なくなかっただろう。
少し考える素振りを見せた宝井は、ややあってから俺の方へと向き直った。
「行きたいところ……たくさんあるけど、そうだね。ペンギン、見てみたいかな」
「ペンギン?」
「うん。野生の。赤道よりも南にしかいないんだって。水族館では見たことがあるから、生きてるうちに一回は野生も見てみたいんだよね」
ペンギン……と言えば南極のイメージだ。一列になって、ちょこちょこ歩いている姿が思い浮かぶ。
「南極って、旅行で行けるのか? 探査隊とかが行くイメージなんだけど」
「別に南極にしかいない訳じゃないよ。でも私、赤道より南に知り合いっていないから、できれば観光客慣れしてるところに行きたいな。今のところはウシュアイアが第一候補だね」
「ウシュアイア?」
「アルゼンチンの南端にある町。南極のすぐ近くだから、野生のペンギンやオットセイが見られるんだ。南極近辺じゃ、結構大きい都市だよ」
宝井は何でもないように説明したけど、俺としてはそもそもアルゼンチンの位置や形がぼんやりしているから、心から納得してうなずくことはできなかった。サッカーが強くて、こう……南北に長いのは覚えている。
漠然と海に行きたい俺とは違い、宝井は明確な希望を打ち立てているのだと実感する。眞瀬北中の二年一組の中で、真に彼女の言葉を理解できる奴は果たしているだろうか。
「何にせよ、嫌がってても掃除はしなくちゃいけない訳だし……誰も余計なことをしないでくれたらいいな。できることなら、一学期は平和に終わりますように」
宝井の祈りは尤もなもので、俺も内心で深く同意した。一学期と言わず、卒業するまで俺たちの周りが平和であって欲しい。宝井がこれ以上、浮かない顔をしないように。
宝井の夢と、小さな祈り。そのどちらも叶ってくれと願うのは、欲張りだろうか。少なくとも、俺は海に行くよりも、宝井の願い事を実現させる手立ての方が欲しくて堪らなかった。
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