5

 せっかくいい天気だから河川敷まで行かない、と宝井に提案され、俺たちは最上川の河道まで移動した。もとより昼食は持参していたし、その辺りのベンチに並んで座るよりも目立たないだろう。俺に断る理由はなかった。

 堤防の坂にそのまま座ると、さわさわと吹く風が皮膚を撫でた。自転車に乗っている時はあまり感じないが、動くと暑いし汗も流れる。帰り道は向かい風かもしれないが、無風でなくて良かったと思う。

 俺はどこでも食べやすいようにおにぎりを持ってきたが、宝井は弁当らしい。両足を真っ直ぐ伸ばし、膝の上に弁当箱を包んでいたバンダナを広げてランチョンマット代わりにしている。……のだが、彼女のもとから漂ってくる匂いは俺にとって予想外のもので、失礼とわかってはいながらも二度見してしまった。


「えっ……と、宝井、それってもしかしてカレー……?」

「うん。それがどうしたの」

「いや……弁当でカレーって珍しいと思って」


 円柱形の容器は保温用なのか、中からほかほかと湯気が立っている。そこからこちらに流れてくるのは、紛れもなくカレーの匂いだ。

 対する宝井は、何がおかしいのだろうとでも言いたげな顔をしている。既にその手はスプーンを握っているし、彼女にとって弁当にカレーをチョイスすることは珍しくもなんともないのかもしれない。そういえば、仙台に行った時もカレーを食べていたっけ。


「なあ、宝井ってもしかして、カレー好き?」

「好き‼️ 大好き‼️」


 何気ない問いのつもりだったけど、宝井から返ってくる言葉は存外に力強かった。長い前髪越しでもそうとわかる程に目を輝かせて、宝井は何度もうなずく。


「カレーは良いよ、すごく良い。何を合わせても美味しいし、じゃがいも人参玉ねぎの御三家だけでも十分な満足感を得られる。そして全ての炭水化物との相性が良い、トッピングを付ければさらに輝く、超美味い。天才ってこういうことを言うんだなって心の底から思うよ。暑い時は汗を流して爽やかに、寒い時は体の芯から暖まれる、なんて言うんだろう、オールラウンダーって感じ? とにかく万能、カレーはすごい。世界中の人間から愛されて然る存在だよね……」

「そ、そうなのか……」

「磐根君はカレー、ドロドロ派? シャバシャバ派?」


 物凄い勢いでカレーを褒め称えた宝井が、ずいとこちらに身を寄せてくる。いつもならあり得ない距離感も相まって、俺はどぎまぎとしてしまう。


「ええと……どっちでも美味しいと思うよ、俺は」

「……強いて言うなら?」

「いや、本当にどっちでも良い。そもそもカレーって、日が経つにつれて変わってくものだと思うし……」

「……………」


 先程までの輝かしい眼差しはどこへやら、今度は凄まじい目で睨まれた。俺は回答を間違えてしまったようだ。

 宝井には宝井なりのこだわりがあるのだろう。それを否定するつもりはない。だが、まず俺の家ではあまりカレーを作らないので、食感の派閥を問われても上手く答えられないのが正直なところだ。出されれば食べるし美味しいと思わない訳ではないけれど、宝井と同じくらいの熱量は持っていない。

 身を乗り出していた宝井は盛大な溜め息を吐き、流れるような早さでもとの位置に戻った。いただきます、と手を合わせてカレーを食べ始める。


「……それで、宝井はどっちなんだ?」


 二人並んで昼食にありついているのに、沈黙ばかりなのは気まずい。宝井の顔色を窺いながら問いかけると、彼女はじ、と上目遣いにこちらを見た。


「どっちって何が」

「さっきの質問だよ。ドロドロかシャバシャバかってやつ」

「……私はドロドロ派。カレーは食べ物だから」


 それは当たり前だろう、と思っていると、宝井はふうと息を吐き出してから続けた。


「世の中にはね、カレーを飲料だと思ってる輩もいるんだよ。別にシャバシャバのカレーが嫌いな訳じゃないけど、食べ物として口にするなら断然ドロドロのカレーだと思う。前に母親の友達の家に招待されたんだけど、その時カレーをマグカップに入れて出されて……あり得なくない? スープカレーならわかるけど、普通に根菜がごろっと入ってるカレーだよ? 咀嚼の必要があるじゃん。だったら皿で出すべきじゃない? ライスがついてなくてもカレーは食い物だろうが」


 そこまで一息にまくし立てて、宝井はもぐりとカレーを頬張る。そのまま頬を動かし、飲み込んでから、ごめんね、と謝罪する。


「磐根君に怒っても仕方ないよね。人の好みはそれぞれだし……。はあ、こだわり強すぎるのもダメだね……申し訳ない……」

「良いよ、気にしてない。宝井がカレー大好きってことはわかった。やっぱり、カレーが一番なのか?」

「うん。でも具材とかはあんまり気にしないよ。基本が揃ってれば後は大体平気、何でもオッケー。肉は豚でも牛でも鶏でも好き。最近はトッピングも色々試してる。あと、ハヤシライスも普通に好きだよ。デミグラスソースのコクと牛肉の組み合わせは上策だし、カレーと違って辛みがないことにより幾分か余裕をもって食べられる点も天晴れ。私はスパイス効いてた方が好きだけど、喉を痛めてる時とかは助かってる」

「なんだか所々が武士みたいな感想だな……。じゃあシチューはどうだ?」

「ビーフシチューならご飯にかけても許せる。ホワイトシチューはそうでもないかな。どっちかって言ったら、ビーフシチューの方が好き」

「カレーうどんは?」

「服に飛んじゃうことを除けば好き。ああでも、芋煮の〆にルーとうどんぶちこんで作るやつは無理。本当に無理。カレーにも芋煮にも失礼だと思う。カレーはカレーとして作るから美味しいのであって、とにかくなんでも突っ込めば良いって訳じゃないから。そこのところ、ちゃんと理解して欲しい」


 なるほど、たしかにカレーに対するこだわりは強い。少なくとも、俺の周りにここまでの熱意を持ってカレーと向き合っている人は宝井だけだ。美味しく食べられれば特に思うところはない俺とは、えらい違いである。


「そういえば、宝井って給食はあまり食べないよな。カレーの時も、特別増やしてるって訳じゃないし……。何か理由でもあるのか?」


 隣の席になってから気付いたことではあるけれど、給食の時、宝井は大抵何かを減らしに行っている。食べ終わるのも早くない。片付けが遅れるだの何だのと、同じ班の生徒から白い目で見られている──宝井本人は申し訳なさそうな素振りを見せることなく、しれっとした顔でやり過ごしているが。

 いわゆる成長期にあたる俺たち中学生の食欲は旺盛と形容すべき有り様だ。女子はあまり見たことがないけど、おかわりする奴は少なくない。デザートが余った日なんかは、ちょっとした争奪戦が起きる。

 うちのクラスの女子のほとんどは、盛り付けられた分を当たり前に受け入れて完食する。男子に押し付けることも多々あるのだが、それは嫌いな食べ物だからだろう。比々野みたいな、あまり立場の強くない男子に押し付けられるのは野菜や骨の多い魚など、大体相場が決まっている。

 対して、宝井は量そのものを減らしているように見える。鷲宮なんかに見咎められて叱責されているところもたまに見るが、宝井のスタンスはずっと変わらない。毎日、憂鬱そうな顔をしながらそっと立ち上がり、運が良ければ半分くらいの量にして戻ってくる。だから勝手に少食のイメージが植え付けられて、食に対する興味というか、意欲は薄いものかと思っていた。

 猫舌なのかすくったカレーに息を吹きかけていた宝井は、先程よりもやや控えめな仕草で俺を見た。その眼差しには、隠しきれない不安感がある。


「……他の人には言わないでね」

「言わない。約束する」

「……あんまり、美味しくないじゃん。給食」


 多少なりとも申し訳ない気持ちがあるのか、宝井は僅かにうつむいた。


「そりゃ、一人一人の好みに合わせて作られてる訳じゃないから、仕方ないことではあるけど……なんだろう、味付けが雑な気がするんだよね。カレーはスパイスの風味とか全然ないし、グリンピースとかコーンばっかり入ってるし……。大量生産の具現化って感じが、好きじゃない」

「うーん、わかるようなわからないような……。そこまで考えて食べたことなかった」

「逆に磐根君は好き嫌いないの」

「特にないな。さすがに傷んでたり腐ってたり、体質的に合わないものは無理だけど、出されたものは基本的に食べるよ。自分で料理することって全然ないから、作ってもらえるだけでありがたいかな」

「そうなんだ。磐根君、大抵のことはそつなくこなしそうだから、意外」

「宝井は料理する?」

「カレーは作るよ。色々試したいからね。でも、今日のはちょっと失敗しちゃった」


 そう言い、宝井は容器に残るカレーを見下ろす。前髪に隠されているけれど、きっと彼女の眉毛は悔しげに寄せられていることだろう。


「今回は隠し味にコンソメを入れてみたんだけど、そればっかりに気を取られちゃって……大事なスパイスの風味が薄くなっちゃった。味自体はまずいって程じゃないけど、何かが物足りないというか……あくまでたとえだけど、最終的に得点は決まったけどその前のパスが中途半端で、万全の状態で攻撃を組み立てられなかったミッドフィルダーってこんな気持ちなんだろうね……」

「なんでいきなりサッカーの話に……?」

「親がスポーツ観戦好きでね、昨日ちょうどサッカーの試合を見てたから、なんとなく。私は興味ないけど、授業でやることもあるだろうし、予習のつもりで見てるよ。どうせチャンネル変えさせてもらえないし」


 当時の不満がぶり返したのか、宝井は唇を尖らせる。こうして見ると宝井も年相応というか、中学生っぽいなあという印象を抱かされる。同い年のはずなのに、こういう場面にならないと実感が湧かないのは何故だろう。


「とにかく、今回のカレーは不完全燃焼だから。全ての素材の旨味を引き出せなければ完璧なカレーとは言えない……今後とも精進しなきゃ」

「う、うん。頑張れ」


 やっぱり宝井は変なところでストイックだ。この言葉を鷲宮に聞かせたら、宝井への認識を改めてくれるだろうか──いや、逆効果かもしれないのでやめておこう。剣道に対してもこれくらいの熱量で臨んでくれたら、鷲宮も文句はないのだろうが。

 そんな雑談をしながら、昼食を食べ終える。満足のいく出来ではなかったそうだが、宝井はカレーをぺろりと完食した。ふう、と満腹感のある息を吐き出して、彼女は雲一つない青空に目を向ける。


「あーあ、もうすぐ総体か。終わっちゃえばそれきりなんだろうけど、気が重いなあ。皆気ぃ立ってるし」


 皆、とは言うが、十中八九鷲宮のことだろう。地区総体が近付くにつれて、彼女の纏う雰囲気は険しくなっている。ただのクラスメートである俺だってわかるのだから、同じ部活に所属する宝井はそれ以上の重圧を感じているのかもしれない。

 宝井には申し訳ないが、こうして弱音を吐いてくれるのは嬉しかった。誰に対しても壁のある宝井が、僅かながらでも心を開いてくれたような気がして、ちょっとした優越感を覚える。宝井にとって気を許せる相手の一人になれたら、これほど嬉しいことはない。


「そう言うなよ。一本、取るんだろ」

「……まあ、ね。そこは頑張る。自分で決めた目標だから」

「応援してる。気張れよ、宝井」


 ファイト、とガッツポーズを作ると、宝井はふっと相好を崩した。なにそれ、と肩を揺らしながら笑う。


「ふふ、うん、頑張る。磐根君ってそういうことするんだね」

「どういうイメージだったんだよ、俺って」

「もっと真面目なのかと」

「それは宝井にだって言えることだよ。俺、宝井のこともっとクールな人かと思ってたもん」

「クールって何? 心外なんですけど」

「だって、いっつも無表情で不機嫌そうな顔してるから。まあ好物がカレーでクールな奴なかなか見たことないから、実際の性格わかっても驚かないけどさ」

「偏見が過ぎるでしょ。探してみればいるんじゃない、カレーが好きなクール系」


 くすくす笑いながら、見付けたら教えてね、と宝井が言う。以前見た時と同じように、目尻がきゅっと細まって三日月みたいな形になった。


「構わないけど、自分で探した方が早いんじゃないか? 俺カレー屋とか全然行かないし」

「磐根君なら交友関係広いでしょ。私、友達作るの苦手だし」

「宝井、友達欲しいのか?」

「身も蓋もない言い方するね。欲しいよ、当然。でもあのクラスじゃ無理だなってことはわかる。中学だけが人生じゃないから、全然気にしてないけど」

「俺は友達だよ」


 俺にとっては何気ない相槌のつもりだったけれど、どうしてか宝井はきょとんと目を見開いた。こんなに目を丸くしている宝井は初めて見たので、俺も驚いてしまう。


「……別に、気を遣わなくてもいいよ。友達いなくても死ぬ訳じゃない」


 数秒間の沈黙の後、宝井に睨まれる。本気で怒っていないことはさすがにわかる。これまで散々宝井の機嫌を損ねてきたから。

 俺は気なんか遣っていない。いつから、と聞かれたら明確に答えられないけど、宝井は大事な友達だ。でなければ、放課後に学校の外で話したり、いっしょに出かけたりはしない。


「宝井が嫌なら謝る、ごめん。でも、俺は宝井のこと、本当に友達だと思ってるよ」


 誤解されたままなあなあで終わらせたくなかったので、念押しの意味も込めてもう一度繰り返す。今度は軽い相槌じゃなくて、ちゃんとした意思表示だ。

 しばらく俺と宝井でにらめっこしていたが、先に折れたのは宝井だった。本日何度目になるかわからない溜め息を吐き、ああはいはい、と彼女は投げやりに許容する。


「真面目ってのは、案外間違ってないかもね。私と仲良くしてもメリットないけど、文句ないならお好きにどうぞ」

「友達にメリットなんて求めてないけど」

「あっそ。変わってるね」


 素っ気なく返し、宝井は立ち上がる。そのままずんずんと大股で坂道を上っていった。

 ここまでわかりやすい強がりというか、照れ隠しをされるとは。宝井の心を多かれ少なかれ動かせたのが嬉しくて、俺は密かに破顔した。

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