眩む、残照
硯哀爾
第一章 ノーメンちゃん
1
授業以外で彼女が発する声を、俺は一度も聞いたことがない。それはこれまで関わりがほとんどなかったということもあるけれど、ふとこれまでの学校生活を振り返ってみれば、話したことがない以前に宝井はそもそも話していなかった。──いや、俺が会話したことないだけであって、他のクラスメートとは普通に話しているのかもしれない。声を出せるのに誰とも話さずに生きていくなんて、不便なことこの上ないと俺は思う。
「いやあ、それにしても大地はアンラッキーだよな。よりにもよって、ノーメンちゃんの隣になっちまうとは」
左隣を歩く
俺は初め、彼の言っている意味がわからなかった。宝井のことをぼんやり考えていたこともある。昔からの癖のようなもので、考え事をすると他人の言葉を聞き流してしまう。普段から気を付けてはいるものの、幼馴染相手だとついつい気が抜ける。
「宝井のことを話したいなら、ちゃんとした呼び名で言えよ。何のことかと思った」
溜め息を吐きながら指摘すれば、信也は悪い悪い、と大して反省していない風で謝罪した。こいつはいつもへらへらとしているから、いまいち誠意が感じられない。俺が何かされた訳じゃないから、ただの軽い注意で済むが……真剣な場面でこういう対応をされたら、大抵の人は苛立つのではないかと少々不安になる。
もう一人の幼馴染こと
だが、その功一は日直のため、今日はいっしょに帰れない。だから信也に向けられたのは俺からの指摘のみだった。
「でもさあ、ノーメンちゃんはノーメンちゃんだろ。皆そう呼んでるぜ。大地だってわかるよな」
そして反省の欠片もない信也は、急に同意を促してきた。ここで突っかかるとええーなんでだよこれ以上ないくらいわかりやすいだろ大地はわかってねえなー、などと文句がマシンガンのように飛んでくるので、曖昧に返すのがベターだ。呼び名ひとつ、こんな小さい話題でわざわざ言い争いたくはない。
そうかもな、となげやりに言えば、信也はだよなあ、と顔をくしゃくしゃにした。小さい頃から変わらない笑顔だ。
信也は中学に入ってから、やたら見た目に気を遣い始めた。昔はほとんど坊主に近い短髪だったのに、今は襟足がうなじを隠すくらいの長さだし、前髪は不自然にセットされている。部活終わりの信也からは汗と制汗剤が混じった甘ったるい臭いがして、俺は何だか虚しくなる。信也がどんどん添加物まみれになるみたいで、無茶苦茶に色を混ぜた絵の具を見ているみたいで、目を逸らしたくてたまらない。
これもやめたいと思っている癖のひとつ。いつまでも昔は良かったのに、と過去ばかり見てしまうこと。
「しっかし、大地は変なところで運がねえよなあ。お前の隣になりたいって女子、多かったんだぜ? それなのに、いざ席替えしてみたら選ばれたのはノーメンちゃん。やり直ししたいって言えば良かったのに、大地ってばもったいないことしたよ」
交差点を曲がり、田畑ばかりの景色に住宅がちらほら見え始める。俺たちの小学校──
先程からずっと繰り返されているノーメンちゃん、という揶揄を含んだ呼び名は紛れもなく宝井のことだ。
彼女がそう呼ばれ始めたのは、進級前の国語の授業──教科書の内容がほとんど終わったからビデオでも見ようか、と先生が流した能のビデオがきっかけだ。そこで登場した能面にそっくりだということで、以降宝井は一部の生徒──特に信也のような、クラスの中心にいる奴らからノーメンちゃんと呼ばれている。日焼けのひの字もない白い肌と、彫りの浅いのっぺりした顔立ち、一重の目元、それから常に無表情で滅多に話さないのがそれっぽいのだと信也は言う。
正直、俺はそれほど似ていないと思う。そもそも宝井は前髪が目にかかるくらい長いし、唇にもほとんど色がない。白塗りというよりは青白い顔色だし、どちらかと言えば消えてなくなりそうな幽霊の方がそれらしいと思う。
要するに、ノーメンちゃんという呼び名は彼女をいじるためのキーでしかない。たまたま目に入ったちょっと受け入れがたいものを、半ば強引に結びつけただけに過ぎないのだと俺は感じる。
宝井は信也とは正反対の、いわば日陰にいるタイプの人だ。ちゃんと意識して見ていないと存在に気付けないような、それこそ幽霊みたいな女子。黄色くて甲高い声で大騒ぎすることはなく、放課後に入ればすっと教室から消えている、ほぼ空気レベルの存在感。たった三十人しかいない、三年間同じ教室で過ごすクラスメートと会話するところも見たことがない。ノーメンちゃんといじられる度、何も言わずにうつむいている。挙手発言したところもお察しの通りといったところ。先生に当てられればぼそぼそ答えて、気付いたら着席している。
そんな日陰者の女子が、今日から俺の隣人になった。信也はそのことで、俺を憐れんでいるのだ。
「別に、困ることなんてないだろ。多分二学期になったらまた席替えするんだろうし、そこまで気にすることないと思うけど」
そう言い返せば、真面目だなあ、と軽く小突かれる。
「さっすが我らの委員長。俺だったら絶対やり直しを所望するね。せっかく女子と隣になるなら、もっと可愛い子の方がいーじゃん」
「お前、大野と付き合ってるんじゃなかったか。そんなこと言っていいのか」
「あー、ハルはなあ。なんつーか、自然消滅しそーな感じだから。やっぱめんどいわ、あいつ」
この様子だと、二人の仲がもとに戻るのは難しそうだな、と勝手に思う。信也のつまらなそうな顔から見るに、大野はほとんど飽きられている。
信也には熱しやすく冷めやすいところがある。趣味やちょっとした遊びも、一度ハマればその時は夢中になるものの、飽きたらそれまでだ。一気に表情がなくなって、あーもういいわ、と今のような顔をしてあっさり投げ出す。そして新しいものに手を出して、飽きるまで楽しむ。
きっと、女子に対しても信也はそうなんだろう。今のやり取りで俺は確信した。
信也らしいな、と思う。そして少し幻滅した。
俺にとって、信也は明るくて面白くて、それでいざというときは頼れる大切な友達だ。軽薄なようでいて本当は努力家なところとか、俺や功一との約束は破らないところとか……そういうところを、俺は好ましく思っている。
そんな信也は、女子を軽々しく捨てるような奴なのだ。相手は人間なのに、
二人の間に何があったのかはわからない。部外者の俺が首を突っ込むことではないと理解している。でも、それを含めて俺としては「ないな」と思ってしまう。
つまり、俺は何気なく雑談をしていながら、信也に引いたのだ。笑顔を向けつつ、そんな素振りは見せずに、内心ではこいつってろくでもないな、と下に見ている。
……心臓の辺りが、むかむかする。別に俺が何かされた訳でもないし、信也は他にいる友達の誘いを蹴ってまで、ただ幼馴染というだけの俺と下校することを選んでくれているのに。
「んじゃ、大地、またなー」
「ああ、また明日」
小学校を通りすぎて、公民館の前で別れるのが俺たちのきまりだ。信也は左、住宅街の方へ、俺は右、バイパスの方に近い農道を歩いて自宅へ帰る。
俺の家はここから歩いて十分足らず。これまでの道も足せば学校まではそれなりの距離があるけれど、苦になる程の距離ではない。この程度でへばっていては、いくら人数が少ないとはいえ陸上部ではやっていけない。
人気のない農道を、独りで歩く。冬場になると、下校時刻には真っ暗になっているが、基本的に拓けた道なので不安を覚えたことはない。七年も同じ道を登下校していれば、慣れるのも当たり前のことではあるのだが。
しばらく歩いていると、急に木立が見えてくる。児備嶋地区に昔からある神社──地元の人たちは天神さん、と呼んでいる──だ。神社と言っても年中無人だし、有志の人がたまに手入れに来る程度の小さな社殿でしかない。俺にとっては馴染み深いもので、この天神さんの森が見えるともうすぐ家だな、と思う。
こんもりと木々に包まれた石造りの鳥居の前を、普段通りに歩く。砂利の混じった砂を踏むと、靴裏で掠れた音が鳴った。
天神さんが、いつもと違う。
その理由はすぐにわかった。鳥居から少し離れた、神社の敷地と道路の境目に自転車──それもうちの中学のステッカーが貼ってある──が停めてあったのだ。
俺の通う
うちの生徒が来ているのか、と思うと、自然と足が止まった。普段は見向きもされない天神さんに来るような生徒。一体誰なのだろう。
足音が鳴らないように爪先まで神経を行き渡らせるつもりで、俺は鳥居から少しだけ身を乗り出す。日暮れ前の木立は、眩しすぎる残照を幾分か遮って一足早く夜を迎えているように見えた。
そんな木立の中に、一人の小柄な影が立っている。濃紺の襟と赤いスカーフは、間違いなくうちの中学の制服だ。
青白い肌。長い前髪。飾り気のないひとつ結び。指定鞄の肩掛けを両手で握って、その場に立ち尽くしたまま動かない。隙間から差し込む夕日を頭から浴びて、白いセーラー服が橙色にも、赤にも見える。
『ノーメンちゃん』
小馬鹿にするような、信也の声が脳裏で反響する。
──宝井詠亜。
何となく気まずくて、俺は彼女が宝井だとわかった瞬間に踵を返していた。靴裏がジャリジャリ鳴って、つい顔をしかめてしまう。
宝井は児備嶋地区の出身ではない。中学を挟んで反対方向──
なんで宝井が、天神さんにいるんだろう。あそこはいつも無人で、面白いものなんて何もないのに。
しばらく早歩きで進んだところで、俺は天神さんの方を振り返った。宝井の自転車はまだ停められてある。持ち主が木立から出てくる様子もない。
宝井詠亜。幽霊みたいで、まともに声を聞いたこともなくて、ノーメンちゃんと呼ばれて密やかに笑われている、俺の隣人。
変に喉が渇く。頬に触れる空気が冷たい。何の感情も見受けられない宝井の横顔が、頭から離れない。
真っ先にその横顔を、怖いと思った。
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