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天神さんに行くのも、初回に比べたらだいぶ慣れた気がする。勿論、宝井を見かけてからの計算だ。ここに彼女がいなければ、通学路の一角として通り過ぎるのが常だった。
部活帰りにちらと覗いてみれば、そこには既に宝井がいた。こんな時間までいるなんて珍しいと思ったけど、夏が近づいて日も長くなっている。暗くなるまではここにいようという心積もりなのだろうか。
「宝井、お疲れ」
いつものように声をかける──だけでは何となく味気ないような気がして、今日は試しに手も挙げてみた。なるべく自然な風を装ったが、挙動不審にはなっていないだろうか。幼馴染とは何気なく交わせる仕草でも、宝井相手だと変に緊張する。
ノートに何か書き物をしていたらしい宝井は、俺の声に反応して顔を上げた。そして、教室にいる時よりもいくらか柔らかい仏頂面で、うん、と短く答える。
「そっちこそ。陸上部も部活の時間、延びてるんだね」
「総体前だからな。こればっかりはどこの部活も同じじゃないか?」
「忌々しいことにね」
忌々しい、なんてさらりと口にできる奴、少なくともうちのクラスにはそうそういないだろう。鷲宮辺りなら何かの拍子に言いそうだけど──雑談で口にするのは宝井くらいだと思う。
部活に対してあまり精力的とは言えない宝井にとっては忌々しいことだが、地区総体に向けて部活の上限時間はほんの少しだが延長された。六時から六時半までと、俺にとってはそう変わらなく思える延長も、宝井からしてみればそうはいかないのだろう。延びた三十分の疲れを滲ませつつ、彼女はノートをぱたんと閉じる。
「地区総体、早く終わってくれないかな。他の部活はどんな結果になっても良いけど、剣道部は地区止まりでいいや。どうせ私は個人戦だけだし」
「無茶苦茶言うなあ……」
「磐根君は鷲宮さんにチクったりしないでしょ」
なんとも素っ気ない言い方だが、これは信用してもらえているということだろうか。そうであったら良いと、誰にでもなく思う。
ささやかな喜びに顔が弛みそうになるが、どうにか堪える。きっと宝井は俺がにやけるのを良く思わないだろう。これでまた刺々しい態度に戻られたら、さすがに悲しい。
そんな俺の内心を余所に、石段に腰かけていた宝井は溜め息を吐きながら立ち上がる。そうして、じろり、とお馴染みの冷めた視線を向けてきた。
「磐根君さ、学校でまで私の味方面しなくて良いよ。ああいうのは慣れてるから」
「いきなり何の話だよ」
「今日のこと。とぼけないで」
そう言う宝井の両腕は、教室で見たのと変わらない。左右共に真っ青で、見ているこちらの腕がざわざわとする。
「鷲宮さんの言う通り、私が下手なのが悪いんだから。ただでさえ総体前で気が立ってるのに、よりにもよって磐根君から注意されるなんて、鷲宮さんの機嫌が悪くなるだけだよ。私は大丈夫だから、これ以上首を突っ込まないで」
「それは悪かったけど……なんで俺だと余計にダメみたいな言い方するんだ? 誰に言われても同じじゃないのか」
「……本気で言ってる?」
何気なく問いかけたつもりだったが、どういう訳か宝井は目を見開いた。彼女でもこんなに目を大きくできるのか、と他人事のように驚いてしまう。
「磐根君、さすがに鈍すぎるでしょ……。鷲宮さん、磐根君のことは他の男子よりも気に入ってるんだよ。知らなかったの?」
「気に入ってるって……宝井にはそう見えるかもしれないけど、俺には心当たりがないよ。たしかに、信也とか長内みたいな賑やかなタイプよりはきつくないと思うけど、俺に限ったことじゃないだろ」
「磐根君に限ったことだよ。鷲宮さんが自分から話しかけに行く男子なんて、ほとんど決まってるし……積極的に雑談しに行こうとするのは、磐根君くらいじゃないかなあ」
「どうだろう……宝井に言われるまで、そんなこと気にしてなかった」
「鈍感」
またしても同じ文言を食らってしまった。本当のことなので否定はできない。
たしかに、他の男子に比べたら鷲宮の対応は多少柔らかい……ような、気はする。中学に入ってから、鷲宮は特に他人に手厳しくなった。下品な会話ばかりで話にならない、といつだったか切り捨てていたのを覚えている。そんな言葉を聞けたのも、鷲宮から心を許されているからだろうか。
何にせよ、言われるまで気付かなかったというのは恥ずかしいものだ。他人に無関心なように見えて、宝井は周囲をよく観察している。
「とにかく、鷲宮さんの前で不必要に私のことは庇わないでね。余計当たりが強くなって、迷惑だから」
「わかった。でも、鷲宮が八つ当たりするようなことってあるか?」
「念には念を入れるべきでしょう。何が彼女を怒らせるかわからないし」
ひとまず、宝井から迷惑と思われないためにも彼女の言には従っておくべきだろう。本当に鷲宮が八つ当たりするとは思えないけど、宝井が心配しているのなら行動を改める他ない。
それよりも、俺としては河北に行く日のことについて色々聞いておきたい。日時はもう決まっているが、それ以外はさっぱりだ。
「あのさ、宝井──」
「待って、誰か来る」
声をかけようとした矢先、宝井は動いていた。体育の授業でおろおろしている彼女と同一人物なのか疑いたくなる程の身のこなしで踵を返すと、本殿を通り越して畑の方へと走っていってしまう。どうやらビニールハウスの影に隠れるつもりのようだ。
「──おい」
余所様の畑なのに良いのかな、と思っていると、背後から声がかかる。宝井の見間違いではなかったようだ。
ゆっくり振り返り、俺は人影を確認する。俺が着ているのと同じジャージ。ぶっきらぼうな態度は、いつでもどこでも変わらない。
「……功一? こんなところで何してるんだよ」
「……それはこっちの台詞だ」
天神さんにやって来たのは、俺の幼馴染──宝井と同じ剣道部の功一だった。
功一の家は、こっち方面じゃないはずだ。いつも公民館のところで別れるのに、どうしてここにいるんだろう。
そっと首をかしげていると、功一はわかりやすく溜め息を吐いた。顔にはありありと呆れが浮かんでいる。
「公民館のところで、お前のばあちゃんに会った。最近帰ってくるのが遅いって言ってたから、どこをほっつき歩いてるのかと思ったら……あの自転車、お前のじゃないだろ。誰とこそこそ会ってたんだよ」
「それは……」
幼馴染というのは気心知れた関係だけど、同時に身近過ぎて油断ならない存在でもある。功一は淡白なように見えて意外と心配性だから尚更だ。
宝井と会っていた──なんて言える訳がない。功一なら言いふらすことはなさそうだけど、きっと宝井は良く思わないだろう。
「……後輩から、ちょっと相談を受けてて。学校にいたら閉門ぎりぎりかもしれないから、急きょここでってことになったんだよ」
苦し紛れだが、今回ばかりは仕方ない。俺はなるべく平静を装いながら、功一に向かって答える。
無愛想な幼馴染は、ちらりと天神さんの前に停められている自転車を見た。特に変わったところのない、シルバーの自転車。見る限り名前は記されていないけど、宝井のものと割れないことを祈るしかない。
「……あのシール、茜ヶ淵地区の生徒のだよな。なんでわざわざ遠回りしてまでここに来るんだよ。そんなに切羽詰まってるのか?」
「そうだよ。それに、俺に気を遣ってくれたんだ。自分のせいで帰りが遅くなるのが嫌なんだろ。察してやれよ」
「その後輩ってのは、今どこにいる?」
「隠れちゃったよ。お前がいきなり押し掛けてくるから」
こういう時に限って、功一はなかなか引いてくれない。ビニールハウスの後ろに隠れているのが宝井だと悟られないよう気を付けつつ、俺は存外に粘る功一が早く諦めて立ち去ることを願う。
功一はしばらく俺を睨んでいたが、やがて無意味とわかったのかこれ見よがしに肩を竦めた。
「……まあ、お前のことだから、信也みたいな馬鹿な真似はしないか。あまり心配させるなよ」
「わかってる。……けど、功一に言われるのはなんだかなあ」
「俺は別にお前なんかどうだって良いけど、お前んとこのばあちゃんが心配するのはやりにくいんだよ。総体前なんだからとっとと帰ってとっとと寝ろ。後輩ならまだ二年あるだろ」
最後の方は早口になりつつ、功一はなげやりに言い放つ。そして、こちらの返答を聞くつもりはないのかさっさと背中を向けて天神さんを出ていってしまった。
中学に入ってから少しひねくれたかと思ったけど、功一の強がりは変わらない。昔から、俺と信也が喧嘩すると嫌そうな顔をしながら割って入って仲裁していた功一のことだから、俺を心配する気持ちも多少はあるのだろう。態度が良いとは言えないが、根は良い奴なのだ。
「……よし、行ったか……」
それ戻ってくるフラグじゃないか? と指摘したくなる台詞を呟きつつ、宝井が戻ってくる。急いで隠れたせいか、その額には汗が浮いていた。
「古沢君、幼馴染には優しいんだね。こっちとしては歓迎できないけど」
「優しい……のかな。まあ、意外と気にしいなのは間違ってないよ」
「それだけ磐根君のことが大事なんでしょう。今度フォローしたげなよ」
「宝井も宝井だな……」
「何、私が気を遣うのってそんなに変?」
汗を拭いながら、宝井が笑う。いつからかはわからないが、俺の前でもよく笑うようになってくれたのは純粋に嬉しい。それ以外の表情も、同じくらい目にするけれど。
とにかく、功一が戻ってくる気配はない。俺はほっと胸を撫で下ろしてから、宝井に向き直った。
「それで、さっき聞き損ねてたことなんだけど……今度出掛ける時って、昼ごはんは持参にする? あっちの方って、コンビニあったっけ」
「……ないことはないんじゃない? 私は節約したいから持参にするけど」
「そうか、なら俺もそうしようかな」
特段金欠という訳ではないが、しなくて良い出費は避けるに限る。とはいえ、最近は特に欲しいものもないから、節約する必要もないのだが。
「それじゃ、私はそろそろ帰る。磐根君も早く帰りなよ。家族、心配してるんでしょ」
さっきの会話を擦りつつ、宝井は自転車に跨がる。冗談めいた口調は、以前だったら考えられないものだ。
一生懸命自転車を漕いでいく宝井の背中を、ぼんやりと眺める。
ここ数ヶ月で、彼女との距離感は随分縮まった。このまま行けば、いずれ友人と呼べるような仲になれるだろうか。
暗くなってきた空は、まるでこちらを急かしているみたいだ。祖母をこれ以上心配させるのも不本意なので、俺は駆け足で家路を急いだ。
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