5

 部活終わりの汗も拭かず、俺は家に帰宅するとすぐに自転車を引っ張り出してもと来た道を逆走した。向かうは勿論茜ヶ淵。

 眞瀬北中の学区は、中学校に隣接する最上川の支流によって分けられている。北側が茜ヶ淵、南側が児備嶋。川を越えたらそこからずっと下り坂だが、帰りは上りなのだと思うとげんなりしてしまう。児備嶋は平坦で、登下校の道のりに坂がないから尚更だ。茜ヶ淵地区の生徒たちは、毎朝気だるくこの坂を上ってくるのだろう。

 下り坂によるスピードが落ち始めた自転車は茜ヶ淵小学校の側を通り過ぎ、広沢いわく茜ヶ淵地区唯一の信号──押しボタン式である──を渡れば、周囲は城下町の様相を見せ始めた。堀をぐるりと取り囲むようにして建物が並んでいる。公民館の側は住宅が少なめのようで、農協や誰が使っているのかわからない倉庫、ほぼ空き地だが看板には公園と記してある土地などが見受けられた。

 児備嶋も同じようなものだが、過疎化ってこういうことなんだと、身をもって実感する。土曜日だというのに、道で見かけるのはお年寄りばかり。見ず知らずの俺に、何故かお帰り、と挨拶してくる。俺はどちらかと言えば、外部から出払ってきた方なのに。

 そうしてしばらく自転車を漕ぎ続けていると、堀の外側に沿う形で住宅が立ち並び始めた。アパートやマンションは見受けられない。ほとんどが一軒家で、たまに個人経営の商店があるくらいだ。

 その中で、これ見よがしにぽっかりと空いた区画──柵も何もない、一見すればただの空き地──に、俺の目指すものはあった。


『茜ヶ淵城跡』


 大体二メートルくらいだろうか。俺が見上げる先には、でかでかとそう彫刻されている。そこまで古いものではないのか、風雨による汚れや劣化は見受けられない──単に俺が鈍くて、気付けないだけかもしれないけれど。

 しかし、地元の人はこんな石碑など見ても何の得もないのだろう。手押し車を引いたお年寄りが何人か通り過ぎていったが、石碑の前にいる俺をあれまあ、などと言いながら見ていた。特に何か話しかけられるという訳ではなく、ただ単に挨拶されるだけなのだが。

 まあ、たしかに目立つだろうとは思う。顔見知りばかりの土地にやって来た余所者は、たとえおとなしくしていても目に留まるものだ。

 携帯で石碑の写真を撮ってから、俺は自転車に戻る。いつもそうしているようにサドルへと跨がったところで──急に視界のピントが合った。


「──大地?」


 呼び掛けられた声は、よく聞き慣れたもの。平生なら、おう、なんて気軽に返事をしていただろう。

 だが、今日はそうもいかない。

 ひゅ、と喉が無意識に鳴る。動揺を悟られないよう、一度深く息を吸い込んでから再び相手を見た。


「信也、と……猫屋敷……?」


 信也と固く手を繋いだ女子。それは、付き合っているはずの大野ではなく──以前、共に下校していた同じ班の女子こと、猫屋敷姫魅だった。

 猫屋敷は俺と目が合うや否や、にっこりと静かに微笑んだ。大口を開けて笑う児備嶋の女子とは、対照的な笑いだった。

 余裕たっぷりの猫屋敷とは反対に、信也は目に見えて気まずそうだった。多分、信也は猫屋敷との関係を知られていることに気付いていない。何とも言えない居心地の悪さと同時に、一応信也が罪悪感を覚えていることに安堵する自分もいた。


「大地君とこんなところで会うなんて、びっくり。茜ヶ淵に用事でもあったの?」


 微笑んだまま、猫屋敷は穏やかに問いかけてくる。その変わらない態度が、俺には逆に不気味だった。

 正直に話す訳にもいかないので、広沢に言ったのと同じように誤魔化した。特に怪しまれなかったようで、猫屋敷も、その隣にいる信也もそれ以上詮索はしてこなかった。


「それにしても……なんで二人はいっしょにいるんだ? 絡み、あったっけ」


 我ながら白々しいとは思うが、沈黙に耐えられる気がせず、他人事のように質問を投げ掛けた。目が泳いでいなければ良いが、自分で自分の顔は見られない。

 信也はわかりやすく言葉を詰まらせた。お喋りな彼にしては、えらく挙動不審だ。体をせわしなくゆらゆら揺らし、空虚に笑う。ただ、唇の端を無理矢理持ち上げただけのように見えた。

 だが、猫屋敷は違う。照れ臭そうにはにかんで、あのね、と切り出す。


「わたしたち、実は付き合ってるの。皆にはまだ内緒だけどね」

「付き合ってる……って、信也」


 大野はどうするんだよ、と続ければ、信也本人よりも先に猫屋敷が反応した。


「大野……って、春佳ちゃんのこと?」


 児備嶋の女子と違って、茜ヶ淵の女子は基本的に同性を下の名前にちゃん付けで呼ぶ。いつだったかは忘れたが、なんかよそよそしくない? と猪上や元木が批判していた。

 信也はあー、と歯切れ悪くこぼした。俺と猫屋敷の視線を浴びて、不恰好な笑顔に拍車がかかる。


「まあ、なんつーか……な? もう自然消滅寸前って感じだし、別れたも同然なんだけど……」

「ちゃんと話してないんだな? 駄目だろ、そういうの」

「わかってるよ、わかってるけどさあ……。あいつ、話聞きそうにないじゃん。重てえし、全体的に」


 はあ、とため息を吐いて、面倒臭いんだよあいつは、と信也は顔を歪める。以前のように、ハル、とさえ呼ばなくなっていた。

 不誠実だ。それをわかっていて、どうにか逃げようとしている。そんな信也に、俺は言い様のない苛立ちを覚えた。


「──へえ、んだがあ」


 その場の空気を変えたのは、猫屋敷の声だった。

 俺も信也も、弾かれたように顔を上げる。猫屋敷の表情を見たいような、見たくないような気持ちだ。多分、信也も同じように思っていただろう。

 猫屋敷は朗らかだった。先程と寸分変わらぬ笑顔で、何も心配事などないように振る舞っている。


「二人って付き合ってたんだね。わたし、全然気付けなかった。なんだろう、普通の友達って感じだったし」


 この場に大野がいなくて良かったと、心から思う。それは、信也と大野の交際そのものを否定する一言だ。

 あはは、と信也が乾いた笑い声で返す。猫屋敷はさらににこやかな風で続けた。


「自然消滅しそうなら、心配しなくても良さそうだね。大丈夫、きっとすぐ別れられるよ」

「そ──うかな。そんな簡単には……」

「大地君は心配性なんだずにゃあ。春佳ちゃんも納得してくれるって。ね、信也君」


 すい、と猫屋敷に顔を寄せられた信也は、ぎこちない動きでうなずいた。完全に主導権を握られている。

 児備嶋には気の強い女子が多いから、何かあると男子はよく尻に敷かれている、と表現されることが多かった。実際に目立ちたがりの女子がグループのリーダーを務めることは度々あったし、イベントの際に積極的に活動しようとすることも少なくない。男子がその勢いに押されることも例外ではなかった。

 だが、猫屋敷は違う。根本的に、児備嶋の女子と一線を画している。


「そういう訳だから、ね、大地君。このこと、皆には話さないでおいてね」


 話したらどうなるか、は語られなかった。語らなくて正解だとさえ思った。

 俺はああ、とかうん、とか曖昧な肯定の言葉を返してから、なるべく自然を装ってペダルを漕いだ。逃げていると思われないように、ただ帰るだけなのだと伝えるために。

 猫屋敷は一貫してにこやかだった。人当たりが良くて、物腰柔らかで、その上恵まれた容姿を持っている。信也はその見た目や顔が好きなのだろう。

 調子に乗ってる。いい子ぶっている。

 いつだか、猪上たちがそう評価していたことを思い出す。猫屋敷は男受けを狙っているが故に、優等生らしい、正統派の言動なのだと。

 あいつがどういった人間なのか、俺にはまだわからない。何かされたという訳ではないし、今までだったら気にしなかったと思う。

 でも、今ならわかる。できれば、わかりたくなかった。

 猫屋敷姫魅──彼女の言葉には、確かな悪意が込められている。

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