本当の魔女⑧


「嫌、嫌だ……、あぁぁ……」


 うめき声にも似た言葉がフュテュールから漏れている。両腕の掌を握り合わせると、腰が抜けたかのようにその場に座り込む。祈るのみ。


 もう間に合わない。マティすらも完全に虚を突かれて動けなかった。「なっ」と声を上げて振り向いた瞬間の出来事だ。弧を描いて放り込まれた松明が視界に飛び込んでくる。刑柱の下に積み上げられた藁束に炎が投下されていた。それには油が染み込ませてある。


 柱に縛られている娘は目線を落とし下を見ている。そして強く目をつぶる。炎が舞い上がった。それは鮮明に紅くおどろおどろしかった。娘は縛られている首と体を懸命に左右にと振っていた。たちまちのうちに炎が巻き上がる。娘の足元に炎が近寄っていく。娘は苦しさに耐えかねて上体を反らしている。そう思った時には飢えた獣が獲物に覆いかぶさるがごとく、紅蓮の火炎が娘の全身を包んでいた。


 フュテュールは目を閉じる事が出来ない。瞼が固定されて、瞬きすら出来ない。全身の震えが痺れにかわり体の感覚が消えていく。閉じる事を忘れたその口からは涎が垂れ落ちている。それに気付かない。両手で顔面を掻きむしっている。涙と涎に塗れて顔はぐしゃぐしゃだった。なのに瞳を閉じられない。


 娘の体が黒く焦げ付いていく。黒煙巻き上がる中なのに、それは鮮明に見える。肩までかかる娘の黒髪がちりちりと縮れていく。しかし無情の火炎は止まらない。さらに踊り狂っていく。辺りを熱風が包み込む。かなり離れた場所にいる群衆達までも、呼吸をするだけで喉が焼けつくような熱風が吹き上がる。娘は縛られたまま、体をくねらすようにもがいている。しかし無駄。そして娘が、きつく閉じていた瞳を見開いた。


 その瞬間、フュテュールと娘の視線が合う――

 炎の威力は絶大。娘の着衣が焦げついて、ぼろぼろと剥がれていく。強烈な肉の焼る匂いが立ち込める。強靭な刑柱が生きているかのように揺れている。そして娘の口に巻かれていた皮枷も同様に焼け落ちた。エナメル質の白い歯が鮮明に見えた。その直後に響き渡る耳を塞ぎたくなるような絶叫、悲鳴。


 娘の断末魔の声でフュテュールは我に返る。足の痛みなどすでに忘れているが腰が抜けて立ち上がれない。四つん這いになりながら、慌ててその場から逃げようとしていた。その髪を鷲掴みにして制止する者がいる。



「目ェ逸らすなっ! 貴女がこうなるはずだったんです、彼女の苦しみと無念を受け止めなさい」


 子供のように首を振り、嫌がるフテュールをマティが無理矢理抱えて、立ち上がらせる。もう限界だった。強烈な熱気と人間の焼ける臭い、黒煙の息苦しさに意識が飛びそうになっている。フュテュールが抵抗しようと手を突っぱねた瞬間に、はっとして身をこわばらせた。マティと目が合ったのだ。その瞳には目の前で踊り狂う紅蓮の炎が映し出されていた。怒りをあらわすかのように真っ赤に染まっている。フュテュールには今のマティはなにか人外の者のように見えていた。本当の魔女なのかもしれないとすら思えてくる。



「これ、私はもう失っているの。その感情を無くしてしまった……」


 ふいに聞こえた言葉の意味を理解するのに、一瞬の間が必要だった。ぽろぽろと頬を伝うフュテュールの涙を人差し指で拭っている。そして優しく抱きしめていた。


 悪魔や魔女と契約したものは、その代価として何かかけがえのないものを一つ失うという。子供のころに母親から聞いた言葉を思い出している。もうなんとなく理解できた。恨みの連鎖が魔女を生み出しているのだと。

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