異端審問

異端審問①

 生きた心地がしない。いや、間違いなく死は訪れる。もはや助からない。


 聞いた事がなかった。この場に連行された者が、生きて外の世界に開放されたという話を。



「そなたは悪魔の存在を信じるか?」


 始まった。殺風景な法廷内の心の中を圧迫されるような閉塞的な空間。そこに響く審問官の声。異様な光景だった。


 真っ青になり、彼女は首を横に振る。二十歳前後くらいに見える、心臓が張り裂けそうなほどに波打っているのだろう、ひどく息苦しそうだ。固く手を握っている。傍目に見ても小刻みな震えがおさまっていない。親指の爪が握りこぶしに減り込んでいるのが見える。


 何かを答えなければならない。唇を開く。しかし、あぁという、しわがれた声だけが漏れる。言葉が浮かばない。焦る。頬に冷たい汗が伝う。何かを答えなければ殺されてしまう。


 母親と姉が処刑されていた。見るも無惨な方法で殺された。彼女は、その一部始終を見ていた。答えられない――


 信じます。それが彼女の母親が最初に同じように法廷に立たされていた時の答えだった。彼女と彼女の姉もその審問に立ち会っていた。



『信じる? おまえは悪魔と合った事があるのだな? 私には悪魔の存在など分からん。出会った事がないのだから』


 これが審問官の言葉だった。彼女の母親は問答無用で処刑された。その数日後、今度は彼女の姉が異端審問会に連行された。魔女狩り。魔女の子供は当然、魔女。生まれながらにして、その能力が備わっていると信じられていた。


 信じません。私は悪魔の存在を否定します。これが姉の答えた言葉だった。審問官は彼女達の母親を裁いた男。同じ審問官。



『悪魔の存在を否定するのか? 神は大いなる力を持って悪魔と戦い勝利した。これは聖書の教え、おまえの言動は神の存在すら否定する背信者じゃ』


 弁解の予知なく有罪。彼女の姉にも処刑判決が下った。当然だが一審確定。しかも即日には処刑執行。


 ふざけた話である。理不尽極まりない。母親と姉の審問に立ち会った彼女は声を大にして叫びたかった。しかし、審問会にて静粛を乱す者もまた死罪。


 その翌日。彼女はこの場に立つ。どのように答えればいいのか分からない。目をしばたたいている。言葉の羅列だけが脳裏を駆け巡っていた。時間も残されていない。沈黙もまた死刑である。


「悪魔とは邪悪な存在であり天使様の敵対者。私は聖書でそのように教わりました。しかし、それ以上のことは無能な私にはわかりません」


 必死に必死に頭の中を整理しながら導き出した答え。体の震えが止まらない。悔しい。恐怖よりもその思いが強い。目尻がしわくちゃになるほどに、かたく瞳を閉じている。涙を流しながら彼女は言い放つ。



「ラ・ファ? あれは違う。あれは本物だろ? 彼女は違う……」


 冷たい石畳が一層の寒気を引き立たせる。煉瓦作りの苔むした法廷内で、隣の者に耳打ちしながら微かに囁く傍聴者の声が聞こえてくる。



 舌打ちをするのは審問官の男。忌ま忌ましそうに舌打ちをする男の表情には苦々しさが滲み溢れている。それにより傍聴席に座る誰もが口を閉じる。再びフロアには静寂が取り戻されていた。


 魔女、そして悪魔と契約を交わした者は代償として涙を失う。これは有名な話。しかし誰でも涙は流す、この場に立たされたならば。



 審問官の男は彼女の顔を見ていない。彼女の母親や姉の審問の時も同様だった。魔女裁判の時にはよく見られる光景ではあるが、男はなんと被告人である女性に対して背を向けて立っている。


 魔女と目を合わせるとその瞳に吸い寄せられてしまう。誤った判決を下してしまう。彼ら審問官はそのように説明する。


 魔女は涙を流さない。しかし彼女は泣いている。それなのに審問官の男はその姿を見ていない。正しくは見ようとしない。


 ラ・ファ。審問官は容疑者に死罪判決を下した後に、その審問を見守っていた傍聴者達に必ずそのように言い放つ。


 それは魔女が操るとされる、水を自在に操り、涙を流しているように見せかける魔法の名前――

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