異端審問⑦


 海の底に沈められたかのような重く圧迫される沈黙の息苦しさの中、男達は固まったまま動けない。室内に痛い程の静寂が流れている。マティは半ば呆れ顔。血など出てくるわけはない。


 そして、目隠しをされて吊されている彼女にも、このやり取りが聞こえているのだろう。荒々しかった吐息と、絶え間無く続いていたうめき声が止んでいる。成り行きに聞き耳をたてている。



 心臓を刺しても血が出ない。そんな馬鹿な人間がこの世にいるはずはない。例え魔女だとしても有り得ない。


 これは仕込み刃。当然の話だ。今となっては下火になりつつあるが魔女狩り全盛期の頃には、これらの短剣は必須の小道具だった。


 魔女狩り全盛期の頃には、告発された者を裁くだけでは飽きたらず、審問官自らが町や村に出向いてそれらしき人間を引っ張って来るのが普通だった。だから「狩り」とつく。


 捻れ曲がった性癖を満たす為に自身の好みに合い、なおかつ条件を満たした者を見つけては、難癖を付けて魔女に仕立て上げていた。



 私は魔女ではありません。

 当然だが狙いを付けられた者は必死に叫び抵抗する。そして村の群集達も集まってくる。そうなれば泣き叫びながら連れ去られようとする娘を哀れに思い助命嘆願する者も出てくる。


 そこで活躍したのがこの仕込み刃。刺さるはずはない。押せば刃先が引っ込むのだから。それを村人達の見ている目の前で娘の心臓に突き刺す。これで魔女確定。今まで助命を訴えていた者の態度も豹変する。


 娘に向けて石を投げ付ける者まで出て来る始末。誰もが魔女を心の底から畏れているのだ。そしてこのような短剣だけではなく、様々な小道具が民衆を騙し無実の者を魔女に仕立て上げる為に発案された。


 やがて魔女裁判が廃止されると共に、これらの扱いに長けた者達はマジシャンと呼ばれるようになり、見世物のマジックで日銭を稼ぐようになる。



「どういうつもり……」


 マティに対して問い掛けようとした審問官。しかし喉元まででかかっていたかけたその言葉を生唾とともに呑み込んでいた。聞かなくとも分かる。迂闊だったと後悔している。マティ、この女は拷問判決を受けた彼女を救いに来たのだから。


 張り詰めた空間、辺りの塵芥が燭台の微かな光に照らされて、結晶化した硝子の破片が浮遊しているかのようだ。下手に動けば切れるだろう。そこに振りかざされているのは見えない刃、言葉の剣。


 待っていた。感情を押し殺し、唇を噛み締めて待った。彼女がこの部屋に連行されるまでは助けようがないから。


 異端審問と言えども裁判。その場には正式な記録官もいて、裁判のやり取り、互いの言動は全て公式記録に記される。迂闊な事は喋れない。マティほどの立場にある者でも、疑惑のかけられた者を傍聴席から庇うような真似は出来ない。今までもマティは、幾度となく傍聴席から色々な者の裁判を見守り続けてきた。そして、その度に煮え湯を飲まされていた。殆どの者は、この部屋に連行される前に自白してしまうから。


 拷問されようとされまいと待っているのは死だけなら、地獄の苦痛を自ら味わうような選択はしない。審問所で認めてしまう。しかし彼女は違った。


 この部屋に記録官などいない。理不尽な暴力を持つ者が、弱者をいたぶり闇に葬る為に作られた部屋。隔離された世界。より強い力を持つ者が法律。彼女はここまで堪え抜いた。ならば助けられる。



「痛――ッ! つっ……」


 不思議な行動を取る。突然、吊されている彼女に近づいたかと思ったらマティは抱きしめた。そして右腕の中指を躊躇いもなく彼女の秘部にと突っ込んでいた。


 前触れもなく突き刺されたその中指が痛かったのだろう。彼女は上半身と腰をよじらせながら微かにうめき声を上げていた。


 審問官の男は右腕で自身の顎を抑えている。無言で無精髭をさすりながら、マティの意味不明な行動の意図を読み取ろうとしている。



「私の名前は会士アル・マティ。預言者リファルの娘です」


 ここでマティが仕かける。この行動自体に意味はない。しかし意味のない事に意味を持たせればその効果は絶大だ。


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