5
おだやかな寝息を十分くらい聞いてから、廊下に出た。
部屋の鍵は、外からかけた。となりの部屋にいる伊勢くんと話してから、また戻るつもりだった。
黒く塗られた木のドアをノックする。すぐに、向こうから開いた。鍵はかけていなかったみたいだった。
「伊勢くん」
「……なあ、鳥羽ちゃん」
「うん?」
「あ、入ってからでええよ」
あたしを通してから、伊勢くんの手が鍵をかけた。
「鳥羽ちゃんが座ってな。それ」
ひとつしかない椅子を勧めてくれた。あたしが座ると、伊勢くんはベッドのふちに腰を下ろした。
ベッドの上には、伊勢くんがいつも使っているノートと筆箱が置いてあった。ノートパソコンの画面には、外国の景色のような写真がいくつも並んでいる。
伊勢くんは、しばらく黙っていた。黒い目は、あたしを見ているようで、見ていない。
「どしたん?」
「あのな……。おれ、考えとったんやけど。ミエちゃんのお母さんな。ワンチャン、生きとる可能性があるんやないか」
「うっそ! ありえへんて! ミエちゃんが七十七才ってことは……」
「二十で生んだら、九十七才。まったくありえん話とは、言いきれんやろ」
「ほんまやね……。どうしよう?」
「会いたいんちゃうかな……。会わせてやれんかな」
「ええけど。あたしたち、これから大学に通うんよ。つきっきりで、サポートはでけへんよ」
「同居しとるだけでも、すごいサポートやと思うで」
「まあ、それは……。そうかもしれんけど」
さまよっていた目線が、まっすぐにあたしを見た。やっと目が合った。
「旅をしようや」
「はい?」
「夏休みとか。冬でも、春でも。鳥羽ちゃんが嫌でなければ、おれは、ミエちゃんをつれてってやりたいて思うとる」
「ええけどね……。出雲も恐山もすっとばして、ポーランド?
英語、通じる? 通じたとしても、英語で会話する自信ないわー」
「ポーランド語やな。英語と似とる感じもするけど、ようわからん」
「えー……」
「大丈夫や。ミエちゃんがおる! 本人に勉強してもらえばええ」
「あー。たしかに、天才言語学者やもんね。そうか……」
「もう亡くなっとる可能性は高いけどな」
「そやね。けどな……。ほんまやったら、生まれてからずっと聞き続けて、はじめに覚えるはずの言葉を、ミエちゃんは知らんのやね……」
「そやな。かわいそうやな。
おれなりに、調べたんや。ポーランドのこと」
伊勢くんが調べた情報を教えてもらった。
ポーランドの北側にあるバルト海が見られる浜辺は、観光名所になっていること。ショパンの生誕地で、世界的に有名なピアノコンクールがワルシャワで行われていること。ポーランドに住んでいる人のほとんどが、ポーランド人だということ……。
冗談のひとつも出てこなかった。伊勢くんが、ポーランド行きのことを真剣に考えているのがわかった。
「鳥羽ちゃんは、どう思う?」
「行こうか。ポーランド。伊勢くんと話しとったら、楽しみになってきたわ」
「な。パスポート、用意せなあかんな」
「するわー」
「問題は、ミエちゃん本人の分やな……。無戸籍の人が、日本で戸籍を作るには、どうしたらええんやろうな……。パスポートは、戸籍なしには作れんやろ」
「そこはー……。あの妖怪だか神様だかが、なんとかしてくれるんちゃう?」
「あるかもな。やー、でもな。正攻法でやるしかないんかな……。
ミエちゃんの立場は、難民に近い気いするわ。ビザなしやから、密入国したと思われても、しゃあないんかな?」
「かもしれんね」
「まあ、それもこれも……。おれらも、ミエちゃんも、もっと落ちついてからの話に……なるんかな」
「ゆっくりでええよ。あたしたちも、そうやったやん?」
「やな。ごめんな。鳥羽ちゃん。
ミエちゃんと出会ってから、ぜんぜん、二人で会うてへんよな」
「二人っきりで、デートしたらええやない。大学の帰りとか……」
「せやな」
ベッドから立ち上がった伊勢くんが、あたしの手を引いて立たせた。
「そっちに座るん?」
うなずかれた。ベッドに並んで座ると、伊勢くんが少し寄ってきたので、あたしもその分だけ近づいて、二人で、こどもみたいなキスをした。
ふれるだけで、あっけなく離れていった。
のぞきこんだ目の奥には、きらきらと光るものがあった。あたしを見て、やさしく笑っている。
あたし、伊勢くんが好き。大好き。
異世界に飛ばされて、異世界から飛ばされてきた美少女は、あたしの後ろにある壁の向こうで、すやすやと眠っている。
ごめんね。ミエちゃん。
あたしは長いまつげも、ぱっちり二重も、ゆたかな金髪も持ってへんけど……。
伊勢くんだけは、あなたにあげられへんのよ。
「鳥羽ちゃん?」
「んーん? なんもない」
……ミエちゃんが伊勢くんを好きかどうかなんて、あたし知らんけどな!
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