おだやかな寝息を十分くらい聞いてから、廊下に出た。

 部屋の鍵は、外からかけた。となりの部屋にいる伊勢くんと話してから、また戻るつもりだった。

 黒く塗られた木のドアをノックする。すぐに、向こうから開いた。鍵はかけていなかったみたいだった。

「伊勢くん」

「……なあ、鳥羽ちゃん」

「うん?」

「あ、入ってからでええよ」

 あたしを通してから、伊勢くんの手が鍵をかけた。


「鳥羽ちゃんが座ってな。それ」

 ひとつしかない椅子を勧めてくれた。あたしが座ると、伊勢くんはベッドのふちに腰を下ろした。

 ベッドの上には、伊勢くんがいつも使っているノートと筆箱が置いてあった。ノートパソコンの画面には、外国の景色のような写真がいくつも並んでいる。

 伊勢くんは、しばらく黙っていた。黒い目は、あたしを見ているようで、見ていない。

「どしたん?」

「あのな……。おれ、考えとったんやけど。ミエちゃんのお母さんな。ワンチャン、生きとる可能性があるんやないか」

「うっそ! ありえへんて! ミエちゃんが七十七才ってことは……」

「二十で生んだら、九十七才。まったくありえん話とは、言いきれんやろ」

「ほんまやね……。どうしよう?」

「会いたいんちゃうかな……。会わせてやれんかな」

「ええけど。あたしたち、これから大学に通うんよ。つきっきりで、サポートはでけへんよ」

「同居しとるだけでも、すごいサポートやと思うで」

「まあ、それは……。そうかもしれんけど」

 さまよっていた目線が、まっすぐにあたしを見た。やっと目が合った。

「旅をしようや」

「はい?」

「夏休みとか。冬でも、春でも。鳥羽ちゃんが嫌でなければ、おれは、ミエちゃんをつれてってやりたいて思うとる」

「ええけどね……。出雲も恐山もすっとばして、ポーランド?

 英語、通じる? 通じたとしても、英語で会話する自信ないわー」

「ポーランド語やな。英語と似とる感じもするけど、ようわからん」

「えー……」

「大丈夫や。ミエちゃんがおる! 本人に勉強してもらえばええ」

「あー。たしかに、天才言語学者やもんね。そうか……」

「もう亡くなっとる可能性は高いけどな」

「そやね。けどな……。ほんまやったら、生まれてからずっと聞き続けて、はじめに覚えるはずの言葉を、ミエちゃんは知らんのやね……」

「そやな。かわいそうやな。

 おれなりに、調べたんや。ポーランドのこと」


 伊勢くんが調べた情報を教えてもらった。

 ポーランドの北側にあるバルト海が見られる浜辺は、観光名所になっていること。ショパンの生誕地で、世界的に有名なピアノコンクールがワルシャワで行われていること。ポーランドに住んでいる人のほとんどが、ポーランド人だということ……。

 冗談のひとつも出てこなかった。伊勢くんが、ポーランド行きのことを真剣に考えているのがわかった。

「鳥羽ちゃんは、どう思う?」

「行こうか。ポーランド。伊勢くんと話しとったら、楽しみになってきたわ」

「な。パスポート、用意せなあかんな」

「するわー」

「問題は、ミエちゃん本人の分やな……。無戸籍の人が、日本で戸籍を作るには、どうしたらええんやろうな……。パスポートは、戸籍なしには作れんやろ」

「そこはー……。あの妖怪だか神様だかが、なんとかしてくれるんちゃう?」

「あるかもな。やー、でもな。正攻法でやるしかないんかな……。

 ミエちゃんの立場は、難民に近い気いするわ。ビザなしやから、密入国したと思われても、しゃあないんかな?」

「かもしれんね」

「まあ、それもこれも……。おれらも、ミエちゃんも、もっと落ちついてからの話に……なるんかな」

「ゆっくりでええよ。あたしたちも、そうやったやん?」

「やな。ごめんな。鳥羽ちゃん。

 ミエちゃんと出会ってから、ぜんぜん、二人で会うてへんよな」

「二人っきりで、デートしたらええやない。大学の帰りとか……」

「せやな」


 ベッドから立ち上がった伊勢くんが、あたしの手を引いて立たせた。

「そっちに座るん?」

 うなずかれた。ベッドに並んで座ると、伊勢くんが少し寄ってきたので、あたしもその分だけ近づいて、二人で、こどもみたいなキスをした。

 ふれるだけで、あっけなく離れていった。

 のぞきこんだ目の奥には、きらきらと光るものがあった。あたしを見て、やさしく笑っている。

 あたし、伊勢くんが好き。大好き。


 異世界に飛ばされて、異世界から飛ばされてきた美少女は、あたしの後ろにある壁の向こうで、すやすやと眠っている。

 ごめんね。ミエちゃん。

 あたしは長いまつげも、ぱっちり二重も、ゆたかな金髪も持ってへんけど……。

 伊勢くんだけは、あなたにあげられへんのよ。


「鳥羽ちゃん?」

「んーん? なんもない」


 ……ミエちゃんが伊勢くんを好きかどうかなんて、あたし知らんけどな!

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