2-4
龍が丘に下りた。
「アンゲツ。おいで」
アンゲツと呼ばれた龍が、カツキのところまで這ってくる。カツキに向かって頭を垂れた。
「なんで、お前のところへ来たんや」
「人徳じゃない?」
「いや。おかしい……やろ」
「この子の本当の名前は、闇の月と書いて『
神の名は、人がうかつに口にしてはならない。だから、蘭国のえらい先生に頼んで、別の名前をつけてもらった。ずいぶん……ずいぶん、昔の話だよ」
「お前。一体……」
「どんなに逃げようとしても、逃げきれない……。宿命って、そういうものだよね。
安心していいよ。僕がミハルちゃんと結婚することはない。
僕は、何度でも生まれて、何度でも糧になる……。
貴人のもとに生まれて、大切に育てられる。おいしそうに育ったところで、必ず、ここへ引き寄せられる。弱った闇月を蘇らせるために」
「なにを言うとるんか、分からん」
「嘘だね。マサトには分かるはずだ」
「分かりたない」
「闇月の本当の姿を見てしまった時に、自分の役目を思いだすしかけだよ。
どうして……。友だちになれそうな人とも、結婚したいと思った人とも、誰とも、僕がともに生きることはない」
「そんな……」
「ミハルちゃんを責めないでね。彼女はただ、利用されただけだ。
僕をここへ行かせるために、大きな力に体を奪われてしまった。僕が喰われてしまえば、元どおりになるはずだよ」
「お前がイセの里に来たのも、計画どおりってことか?」
「たぶんね。僕も、すべてを把握してるわけじゃない」
「おれには分からん。なんで、お前が……」
「さあ? 僕にも分からない。宿命としか言えないね」
カツキが、闇月と歩いていく。追いかけた。
丘から西へ下っていって、さらに歩く。
大きな岩に囲まれた、平らな場所についた。
朽ちかけた、小さな祠があった。中心には泉がある。
「神域か」
泉のそばで、闇月がとぐろを巻いていく。
カツキの手が、刀を地面に置く。鎧を脱いだ。それから、服も。
気分が悪い。吐き気がした。
なにをしようとしているのか、分かってしまった。
これは、禊ぎだ。
裸で泉に入っていく。
両手にすくった水で顔を洗う。体と髪も手で洗って、最後に口をすすいだ。
カツキが泉から出た。
大人しく待っている闇月のところまで、歩いていく。
濡れた体は、なにも身につけてはいなかった。
「カツキ」
呼ぶと、おれを見た。
「またね。いつか……。どこかで」
いつかも、どこかも、ないと分かった。覚悟した者の顔をしていた。
のばした手が、カツキの腕をかすめる。つかめなかった。
「カツキ! 行くな!」
「楽しかったよ。マサト」
笑っていた。見間違いかと思った。
おれに向かって、笑っていた。
「やめろ。やめろ、喰うな。喰わんといて」
龍が大きく口を開けた。蛇のようだと思った。
「やめろーっ!」
カツキが飲まれていく姿を、なにもできずに見ていた。
黒い鱗と鱗のすき間から、光がもれている。
闇月の体が光り輝いて、目を開けていられなくなった。
「カツキ……!」
次に目を開けた時には、もう、カツキはどこにもいなかった。
喰われてしまった。
闇月が浮く。去るつもりだと分かった。
「待て。待てって!」
激しい怒りが炎のように燃えて、おれの心を灼いた。
「神さんだからって、人を喰ってええんか!」
返事はなかった。おれは、カツキとは違った。
神に通じる言葉を、おれは持っていない。
闇月が下りてくる。小さな足が大地についた。音もなく、長い体を這わせていく。
おれの頭の上から、何かが落ちてきた。どこから現れたのかは分からなかった。
黒い玉だった。
拾い上げて、血まみれの両手で握りこんだ。なぜか、あたたかいと感じた。
「これ……。おれに?」
闇月の顔がわずかに動いた。黒い目が、おれをじっと見つめている。
おれは、魅入られたように動けずにいた。
黒龍は美しい顔をしていた。
長細い体が、蛇のように動き始めた。
首をのばして、東の空を睨むように見た。横顔も美しかった。
風が巻きおこった。おれの髪が、突風に吹かれてばさばさと乱れた。
足を蹴りだす様子はなかった。体ごと、ふわりと浮き上がっていった。
「闇月……!」
消えた。速すぎて、そう感じた。
空高くに浮かんだ闇月が、遠くへ飛んでいく。
行ってしまった。
しばらく動けなかった。
さっきまでのできごとを、夢の中で見たことのように感じていた。
少しずつ正気に戻っていった。時間がかかった。
半刻もすると、こわばっていた手足が、やっとなめらかに動くようになった。
「こんなん残されてもなー。中身は、どこや」
赤い血に染まった服と鎧と武具が、泉のそばに一式残されていた。
ひとつずつ、拾い上げた。カツキの家族が欲しがるかもしれないと思ったからだ。同時に、誰もカツキを探しにはこないだろうとも思った。
あいつは、「向こう側」のものだった。おれがこどもの頃から、頭の中で思い浮かべていたような、この世のものではない存在と近しいなにかだった。
向こう側から来て、また行ってしまった。それだけのことだ。
だけど、あいつは生きていた。赤い血が流れる人だった。
おれをかばって、己の命を捨てられるような人だった。
涙が止まらなかった。
ほんの一月の間、そばにいて、顔をつき合わせて暮らしただけだ。同じものを見て笑ったり、ミハルちゃんのことで揉めたりしただけだ。
それでも、心が悲鳴を上げていた。おれの体の一部がもぎ取られて、あいつと一緒に喰われてしまったような気がしていた。
宿命なんて言葉で、かんたんに片づけてほしくなかった。あいつが龍に喰われていいだなんて、思えなかった。
カツキの名前を呼ぼうとした。
ひしゃげたような泣き声にしか、ならなかった。
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